創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

日興遺誡置文の研鑽③

今日は、日興遺誡置文研鑽の第3回目です。今月は3ついってみたいと思います。

一、謗法を呵責せずして遊戲雑談の化儀並に外書歌道を好む可からざる事。

本条項は、十四誹謗の特に「著欲謗法」を戒めたご遺誡になります。「遊戲雑談の化儀」とは仏法の関係のない世間話などをすることです。(ここでいう化義とは態度と同意です)「外書」とは大聖人の仏法と関係ない書物を読むこと。雑誌や漫画、人間革命とかですね(笑)歌道とは大きく言うと趣味や習い事という事です。「謗法呵責」とは、自行化他の題目のことです。折伏もしない(化他)勤行唱題もしない(自行)で、こうした趣味や雑談に没頭するのは「煩悩魔」に信心を破られた「著欲謗法」の姿です。そうした謗法を犯さないようにという日興上人のご指南です。では、趣味や娯楽を楽しんではいけないのかといえばそうではありません。勤行・唱題をしっかりと申し上げ、心に折伏を忘れなければ趣味や娯楽を楽しむことはむしろ「いいこと」なのです。「折伏」というのは広く世間に向けて大聖人の仏法を弘めていく事ですから、自分自身が世間や社会に飛び込んでいけなければできません。創価活動家のように会内で内部に向かって声を上げても「謗法呵責」になりません。大聖人が◆権実雑乱の時法華経の御敵を責めずして山林に閉じ篭り摂受を修行せんは豈法華経修行の時を失う物怪にあらずや(如説修行抄)と言われているに社会に出ない創価活動家は「物怪」でしかありません。趣味や娯楽を持てばそこで世間の人々と交流できますし、新聞雑誌や漫画なども世間を知るためには必要な要素です。また世間話の雑談も相手とコミュニケーションを取るには必要な会話です。むしろこれらの事を積極的にしていく事が、在家信者として広宣流布をしていくのに必要なことです。ですから、まずはしっかりと勤行唱題をし、一天四海本因妙広宣流布を祈ったうえで趣味や娯楽を持って積極的に世間へ飛び込んでいくことが大切です。

一、檀那の社参物詣を禁ず可し、何に況や其の器にして一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ず可けんや、返す返すも口惜しき次第なり、是れ全く己義に非ず経文御抄等に任す云云。

本条項は神社等への参詣を禁止ている条項です。この理由は「神天上の法門」に由来しています。神天上法門とは立正安国論に説かれる◆世皆正に背き人悉く悪に帰す、故に善神は国を捨てて相去り聖人は所を辞して還りたまわず、是れを以て魔来り鬼来り災起り難起る言わずんばある可からず恐れずんばある可からず。のことです。ここで多くの世間の人が勘違いしているのは正宗が「神」を否定していると思っているとこです。大聖人は「諸天善神」を否定しているのではなく謗法が蔓延しているので今の神社には諸天善神が住んでいなくて悪鬼が住んでいるといってるわけですから「諸天善神」そのものを否定しているではありません。◆此の国は謗法の土なれば守護の善神は法味にうへて社をすて天に上り給へば社には悪鬼入りかはりて多くの人を導く(新池御書)そのような神社への参詣を禁止しているのが本条項なのですが、日有上人の化義抄には【但し見物遊山なんどには神社へ参らせん事禁ずべからず】と書かれていて、物見遊山つまり観光とか仕事とかで神社に行くこと自体を禁止していません。これは日興上人の時代は信徒が法門をまだ深く弁えていないからそのような人が神社に参詣するとそちらに引きずられる可能性が大きいから神社に行くという行為そのものを禁じましたが日有上人時代になると信徒に神天上法門が浸透してきたので神社へ行くこと自体を禁止することはなくなったという事です。もちろん、神社に行って賽銭をしたり礼をして祈念をしたりするのは今でも不可です。おみくじ引いたりいまだと「御朱印」とかもありますがこれも不可です。境内等のお店で飲食するくらいは物見遊山のうちですからOKでしょう。とはいえ旅行や仕事で他宗の神社仏閣を訪れる前は勤行唱題を念入りにしてから訪れたいものです。「別に信じているわけじゃないから大丈夫」などと高を括っていると我々は凡夫ですからいつ魔に取りつかれるか分かりませんからね。

一、器用の弟子に於ては師匠の諸事を許し閣き御抄以下の諸聖教を教学す可き事。

この条項はご僧侶方の人材育成についての条項になります。本来仏法というものは弟子は「師匠の諸事」を通して学ぶものです。奈良時代の僧侶である行基が詠んだとされる和歌にも法華経を 我が得しことは 薪こり 菜つみ水くみ つかへてぞ得し】とあるように、仏法の極理は師匠に対する常随給仕を通して伝わるものなのです(この件についてはいずれ別記事に書きます)しかし、教学の才能がある弟子(器用の弟子)に対しては師匠への給仕を多少免除して御書等の教学の勉強をさせない。という日興上人の御慈愛のご遺誡です。確かに師匠への常随給仕の中に仏法の極理が存在するのですが、広宣流布を進めていくためには教学も必要不可欠です。そのための人材育成は欠かせません。今でいえば、青年僧侶邪義破折班のご僧侶方が「器用の弟子」にあたるのでしょう。こうした宗門ご僧侶の教学研鑽のお陰て我々信徒は異流儀を恐れることなく折伏・弘教に歩けるわけです。ここで勘違いしてはいけないのは本条項はご僧侶方に対するご遺誡だということです。私は御書や教学を研鑽しているのだから勤行は毎日やらなくていい唱題も少なくていいお寺の行事にも参加しなくていい。というのは不可ですし、逆に自分は器用の弟子ではないから教学は学ばなくていいというのも可ならず。です。我々在家信徒は御本尊様やお寺への給仕を第一としながらも出来る限り教学も学んでいくという姿勢が大切だと思います。また私の菩提寺の講頭さんもいつも「育成」ということを言っていますが、この条項は法華講員さんの育成のヒントになると思います。


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