創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

元顕正会員さんが入講したので。

先日お寺に参詣した時に地区長さんから新しく法華講員になった方を紹介されました。なんでも元顕正会の方だそうで私のお寺では元顕正会の方は聞いたことがなかったのでこれを機に我が寺院も元顕正会員さんの御受戒が増えるといいなぁと思いました。そこで元顕正会員が新規入講記念して(笑)今日は顕正会について少し書いてみます。ご存知の人も多いでしょうが、顕正会はもともとは妙光寺の総代だった浅井センセの父親の浅井甚兵衛さんが昭和17年に結成した『妙信講』が始まりです。最初は妙光寺の一講中だったんですね。その後、妙国寺に所属を替えさらに戦後に法道会(現法道院)に所属した折に妙信講は一度解体され法道会に合流します。しかしまた法道会から離脱し昭和33年に日淳上人の許可をもらい妙信講として復活し日淳上人のお計らいで妙縁寺所属となります。あちこちの寺院に所属替えをした理由は宗門では浅井親子(甚兵衛・昭衛)の身勝手な行動が原因としていますが、そこは私は知らないのでなんともいいません。ただ手継ぎの師匠をくるくると変えるのは信徒の姿勢として私にはいい印象をもつことはできません。仮に指導教師住職に非があって自分がついていけないなら自分一人で離れればいいことで講中引き連れて離れていくのは違うと思いますね。まぁ創価大作もそうですけどなんで他の人を道連れにするのか?自分の名聞名利でしかないでしょう。因みに甚兵衛さんが妙信講を発足した昭和17年ころの創価は牧口会長が創価員に対して寺院参詣を禁止すすなどこちらもまた信徒としてあるまじき行為をしていました。この時代はみんなこんな感じなんですかね。さてそんな妙信講が宗門から追放される原因となったのが、例の正本堂です。正本堂を大聖人の御遺命の三秘抄にかかれている本門の戒壇にしたい池田創価とそれを阻止したい浅井妙信の対立です。とはいっても浅井妙信も昭和40年から4年間は浅井妙信講も正本堂の意義に賛同して妙信講としてご供養まで募っていたんですけどね。最初から反対していたわけじゃないんですよ。しかし昭和45年に創価の「言論出版妨害事件」を機に、日達上人から国立戒壇とは明治時代に出来た概念で、国威発揚を国是とする世相の中で便宜的に仮に使用したが、日蓮正宗の教義とは本来関係が無いことなので、誤解を招いて布教の妨げとならぬよう、今後は使用しない】とのご指南があり、この頃から浅井妙信は【日本の広宣流布は未だ達成されていない。広宣流布の暁に建立される本門事の戒壇は、あくまで国家が建てる国立の戒壇でなければならず、その建立の場所は天母山である】などいう己義をいいだして宗門と創価を批判しだしました。そして正本堂落慶法要阻止を企てたり、昭和47年4月28日付の正本堂に関する「訓諭」に背いたり挙句の果てには【 流血の惨も辞さず】などいう脅迫文まで送りつけてきてついには昭和49年に妙信講解散処分になります。この年の10月には創価本部へ乱入し逮捕者12人を出す事件を起こし11月に、浅井親子と幹部数十名が信徒除名になりました。昭和50年に父親の甚兵衛氏から現浅井センセ(昭衛)に講頭職が受け継がれ昭和57年に「日蓮正宗顕正会」と名称を変え更に平成8年に現在の「冨士大石寺顕正会」と名乗るようになりました。因みに平成元年には妙観講本部にも青年部が侵入する事件を起こしたり、脅迫・軟禁などの勧誘に関する事件も多く起こしています。以上、さっと顕正会のご紹介をしましたが今後は当ブログでも時々、顕正会等の創価以外の異流儀を破折していこうかと思っています。まぁ創価同様全く中身のない我見を振り回していますが多少の基礎知識がないと騙されないとも限りませんので。


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