創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

「この」ってのは「どの」だよ。

創価活動家がよく口にしたりブログに書いたりしている言葉で、

「この御本尊」とか、「この信心」という言葉がある。

「この御本尊に題目をあげれば願いが叶う」

「この信心を続ければ幸せになれる」

創価活動家ならば一度は必ずこの言葉を吐いたことが有るがあるだろう。

破門前や破門直後の時期ならば、

「この御本尊」や「この信心」が何をさしているか明確に分かったのだが

今の創価活動家が言っている「この本尊」や「この信心」とは

一体、「どの御本尊」なのか?「どの信心」なのか?

ハッキリ説明してもらわないとサッパリわからない。

以前は、「この御本尊」と言えば「弘安二年御建立の本門戒壇の大御本尊」のことだし

「この信心」と言えば「弘安二年御建立の本門戒壇の大御本尊」を信じることで

こんなことは、学会員ならば誰でも知っていたので説明の必要もなかった。

どころが今の創価は「大御本尊を信心の対象から除外」した。

だとすると、活動家たちが口にする「この本尊」「この信心」とは

一体「どの本尊」「どの信心」なのだろうか?

会則に教義として

この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ

と書いてある。

ということはどうやら「根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法」を信じることが

「この信心」らしいが、だとしたら「根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法」とは

一体何なのか?

末法のご本仏である大聖人と根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法とは

同じなのか?違うのか?

大御本尊は根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法ではないのか?

もし大御本尊が三大秘法ならばそれを信受しないは謗法ではないか。

逆に大御本尊が三大秘法でないなら、大御本尊の書写のコピーが三大秘法になるのは何故か?

などなど、多くの疑問が芽生え多くの矛盾が生じる。

創価の今のロジック・教義でいえば

「この御本尊」とは創価の販売しているカラーコピーの掛け軸本尊モドキのことなんだろうが

今も書いたが、その掛け軸の大元の大御本尊を捨てている謗法者が

大御本尊を書写したコピーに祈っても功徳があるのだろうか?

大聖人の御書を読む限りでは、謗法者は真筆の本尊でも不可なのだから

「モドキ」なんていうのは当然不可だろう。

また、「日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ」と言っているが

大聖人を末法のご本仏としているのは、日興門流しかいないわけだ。

その日興門流の根本は「唯受一人血脈」と「弘安二年御建立の本門戒壇の大御本尊」なのである。

この二つを否定したらば「日興門流」は存在できない。

つまり、今の創価はこの二つ共に否定。つまり信仰の対象としていないのだから

どうやって「日蓮大聖人を末法の御本仏」と仰いでいるのか不思議でたまらない。

いや事実として「日蓮大聖人が末法のご本仏である」ということを否定しているわけだ。

では、一体創価活動家の言っている

「この御本尊」とは「どの御本尊」で

「この信心」とは「どの信心」なのか?

そして、創価活動家のいう所の「その」本尊は何故願いを叶えてくれて

創価活動家のいう所の「その」信心を続けると何故幸せになれるというのだ。

多くの学会員が幸せになったから。とか

世界に創価学会は広まったから。なんていう

与太話は耳にタコだからどうでもいい

訊きたいのは、なぜ学会員は幸せになったのか?

なぜ創価学会は世界に広まったのか?ということだ。

いつまでも「この本尊」とか「この信心」とか曖昧な言葉で世間や会員さんをだまし続けるのはやめさない。

ハッキリと「どの本尊」「どの信心」なのか明言しなさいな。

それとも、そんなことも分からないで貴方たちは

「その信心」に「確信」を持ってるんですかぁ?(笑)

さぁ「この」とは「どの」なのか?誰かハッキリと答えてみなさいな。


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