悟りを開いた仏陀(釈尊)は、最初に師事した二人の仙人に一番最初に悟りを説こうと思いましたが二人ともすでに亡くなっていたと神に知らされ、最初に一緒に修行をした五人に一番に法を説くことにし五人のいる鹿谷苑に向かいます。当時の鹿谷苑は宗教的聖地でした。そこで苦行を共にした親しい五人に四諦、八正道、中道を説き五人は仏陀に帰依します。仏陀の一番最初のこの説法を『初転法輪』といいます。ここから仏陀の布教の旅が始まります。その中で様々なエピソードや説法がありますが詳細は割愛しますが、『九横の大難』と呼ばれる九種類の横難が有名です。簡単に説明すると、①孫陀梨が謗り(釈尊が外道の者に孫陀梨という外道の女性と関係したように吹聴され誹謗されたこと)②婆羅門城の漿(釈尊が阿難と婆羅門城で乞食したが得られず、老女から臭い米のとぎ汁を供養され、それを見た婆羅門たちから「釈迦はあんな腐った物を食べている」と誹謗されたこと)③阿耆多王の馬麦(阿耆多王は釈尊と弟子を自国に招いたが王は供養を忘れ釈尊と弟子たちが九十日間馬の飼料となる麦を食べたこと)④瑠璃殺釈(舎衛国の波瑠璃王に釈迦族の多くが惨殺されたこと)⑤乞食空鉢(釈尊が阿難と婆羅門城に入った際に王が民衆に布施を制止したため供養が受けられなかったこと)⑥旃遮女の謗(婆羅門の旃遮女が鉢を腹に入れて釈尊の子を懐妊したと誹謗したこと)⑦調達が山を推す(調達(提婆達多)が釈尊を殺そうとして、耆闍崛山(霊鷲山)の上から大石を投げつけたこと。釈尊はこの大石の欠片が足の小指に当たり出血したと言われています)⑧寒風に衣を索む(冬至前後の8日間、厳しい寒風の中三衣を求めて寒さを防いだこと)⑨阿闍世王の酔象を放つ(阿闍世王が提婆達多にそそのかされ酒で酔わせた象を放ち釈尊を踏み殺そうとしたこと)などの難を受けています。しかしそれでも仏陀の布教は止まず、舎利弗・目連の二大弟子を筆頭に十大弟子等多くの人々が仏陀に帰依し弟子となり釈迦教団は発展していきます。最近、創価学会では釈迦や日蓮大聖人という人(仏)は礼拝の対象ではなく法が礼拝の対象だと主張していますが、人々は仏に帰依し仏を礼拝したのです。それは当然のことで仏が説法しなければ法に帰依することはできないからです。さて仏陀は悟りを開いたのち45年余の生涯を弘法の旅に費やしました。そして仏陀は齢80歳の時に王舎城の霊鷲山を後にし北の故郷カピラ城に向かって最後の旅に出て途中のクシナーラーで入滅します。王舎城から北に向かいいくつかの村を通りガンジス川を渡りヴァッジ族の国に入り当時の商業都市・ウェーサーリーに赴き遊女アンババーリーの所有する郊外のマンゴーの林に逗留した後にベールヴァ村に向かいます。ここで仏陀はアーナンダに有名な「自燈明・法燈明」の最後の説法をします。そして更に歩みを進めマツラ国のバーヴァーに赴き鍛冶屋のチュンダの供養した茸料理の毒にあたり食後直ぐから激しい苦痛に襲われながらもクシナーラへ到着し沙羅双樹の元に臥せられここで入滅を迎えたのです。仏陀の最後の説法は「比丘たちよ、今こそおまえたちに告げよう。諸行は滅びゆく。怠ることなく努めよ。」(マハーパリニッバーナ経)で有名な説法です。以上ものすごく簡単に仏陀の略伝を書いてみました。釈尊の弟子たちの話や旅での逸話などもいつか記事にまとめたいと思っていますが、仏陀の生涯から思う事は仏教は自分自身の成仏を求める「求法」と他人に法を広める「弘法」の二つの「ぐほう」の実践に仏陀の示した修行の真意があるということです。ただ仏陀の言葉だけを学んでも「ぐほう」の実践がなければ机上の空論ではないでしょうか。
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