時宗の開祖・一遍は延応元年(1239)、伊予松山(愛媛県松山市)の武士で在地の豪族だった河野道広の子として生まれ、幼名は松寿丸といいます。宝治2年(1248)、10歳で母と死別し父の指図で天台宗継教寺で出家し隨縁という僧名を与えられます。建長4年(1252)、14歳で浄土宗西山派の聖達の門(一念義の浄土宗)に入り以後、智真と名乗ります。25歳の時に父が死に一度還俗し家督を継ぎ妻を娶りますが。文永8年、33歳の時に再出家します。再出家した一遍は信濃善光寺に参籠しそこで唐代善導の『観経疏』散善義に説く譬喩の「二河白道」の図を書写し伊予に持ち帰り窪寺や菅生の岩屋に籠り念仏行に入ります。文永11年(1274)、36歳の時に一遍は妻子と侍女の3人を連れ四天王寺に参籠しそこに集まる人々に「南無阿弥陀仏」と書いた念仏札を配り始めます。これを算(札)を賦(配る)という意味で賦算(ふさん)といいます。それから一遍は妻子らを伊予に帰し高野山・熊野に向かいました。ここから一遍の賦算の旅が始まります。一遍の念仏札は木版で『南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人』と刷った紙です。【一遍】というのは「一が即ち遍し」の意味で一度の「南無阿弥陀仏」でも信・不信を問わず念仏札によって阿弥陀仏の本願と結縁することによってこの世もあの世も極楽浄土であるということです。智真が一遍と呼ばれるようになったのはこれからで以後一遍の賦算の旅は東北から四国・九州までほぼ全国に及びました。この時に少数の弟子を「時衆」と呼び同行を許しました。これが「時宗」の始まりです。そして四天王寺の賦算開始から15年後の正応2年(1289)、一遍は兵庫和田岬の観音堂で51歳の生涯を閉じました。游行に生きた一遍は寺を建立しませんでした。「時衆」が教団として組織化されたのは弟子の他阿真教の代で、一遍を1世・真教を2世とします。総本山の清浄光寺は第の呑海が開いた寺院です。
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