少し前のコメントで「法華講自体の欠点」を考えるように言われ、
直ぐには思いつかなかったので「法華講の欠点ってなんですか?」と尋ねたが
その後、なんの回答もなかったので色々と「法華講の欠点」を探してみたがやっぱり思いつかない。
Hさんが指摘しているような「法主絶対論」とか「僧俗差別」とかも全く感じないし、
他にも創価が一生懸命アナウンスしている、「供養」や「登山」のノルマなどというものも感じない。
まぁ俺が法華講の活動家じゃないからで、ひょっとしたら講頭さんや地区長さんにはノルマがあるのかもしれないしが、
だからと言って俺のような一講員にそうした「ノルマ」が割り当てられることはない。
もちろん、創価流の「目標の申請」や「報告」の義務もない。
以前も書いたが創価と比べると謗法以外はなにをするのも自由なので、法華講員でいることに不自由さは感じない。
創価時代は「信心即生活」というよりも、「生活即活動」で時には生活面でも不自由さを感じることもあった。
例えば嫁が聖教の配達員をした時は、家族で1泊旅行なんてできなかったし、
俺自身もほぼ毎日活動で午前様で慢性寝不足だった。
が、法華講になってからは心身財ともに生活に影響を及ぼすような信心活動はない。
法華講の活動と言えば、登山・寺院参詣・供養・折伏しかなしそれすら各自の自由。
創価のような「麗しい法華家族の世界」なんていうものはないけど普通はそんなもの求めないから問題ない。
そもそも「麗しい創価家族」などという存在が、組織依存を生み同調圧力を生むのだと思っている。
法華講の組織はそういう組織になっていないので講頭や講活動家が他の講員さんに
圧をかけようと思っても圧がかからない組織なんだと思う。
そんなゆるいと言えばゆるい組織なので、自分の日々の生活に何の支障もないから特に欠点が見つからない。
半面、「法華講組織」の長所はなにかと言われればこれまた特に「コレ」といった長所もないのだが、
そもそも法華講員って「法華講の組織」に魅力を感じて入信した人ってそんなにいないだろうからそれも大した問題でもない。
まぁ、あえてそれが欠点といえば欠点か?
とはいえ、信仰において「濃い人間関係」も「魅力ある組織」も必要不可欠な要素ではないから欠点のうちにはいらいないが。
創価の組織は「横」を向いている感じ。対して法華講の組織は「縦」かな。
学会員はお互いに見つめ合って進んでいるが、
法華講員は全員が大御本尊を向いていて講員同士はあまり見つめ合わない。
選挙だの新聞啓蒙だのをやるなら見つめ合っていた方がやり易いのかもしれないが、
折伏しかしない法華講員はお互いに見つめ合っう必要はないのだろう。
見つめ合っていなくても全員が大御本尊を信じていれば自然と「異体同心」の組織になるからね。
まぁつらつら感じたいることを書いてみたが、本当に「法華講自体の欠点」というのが分からない。
俺の知らない「欠点」があるかもしれないから、
「法華講自体の欠点」を指摘できる人がいたらちょっと聞いてみたい気もする。