創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

折伏・育成のポイントは教学研鑽。

折伏と育成。創価時代でも法華講に移籍しても組織の掲げる課題はこの点に尽きる。もっとも今の創価折伏は仏法対話、育成は励まし運動と言葉を変えメインは選挙活動になっているから折伏も育成も重要視されていないが、だから組織力が衰退の一途を辿っているのだろう。法華講はそんな創価を反面教師として折伏・育成に力を入れているわけだ。といっても、折伏も育成も実に難儀なことである。折伏は自分のことなのでまだしも育成は他人案件なので折伏より難しい。私は、いち講員なので呑気なものだが講頭以下のリーダーさん達は色々と考え活動していて頭が下がる。時折、講頭や地区長に育成について意見を求めれるがそういう時は決まって「教学が大切」と答えている。「教学」というと多くの人が知識を得る事と解釈して知識があっても行動が無ければ折伏・育成は出来ないと否定的な見解を示すのだが、確かに知識を得るということは間違っていないが、折伏・育成のための教学というのは知識を得るのが目的ではない。私が折伏・育成をしたいならば教学を学ぶと言っているのは、教学とはいわば体験談と同じ効果があるということなのだ。信仰体験を持っている人が折伏ができるのは自身の体験を他人に語れるからである。また自身が素晴らしい体験を持っていれば他人に語りたくなるからである。だから、唱題などの自行に励み功徳をたくさんもらうことが折伏に繋がるわけだ。【自行若し満つれば必ず化他あり】との日寛上人の御指南の根本はここにある。しかし今自分に差し迫った悩みがなければ功徳を感じることが出来ないのが凡夫である。毎日、平穏無事で暮らせる事を功徳と感じることはできるが折伏・育成で活かせる体験談かといえば微妙である。冥益は体験談としてはインパクトがないというのが実際の所である。つまり折伏・育成がなかなか出来ないのは相手に対して語るべきものがないからである。これは法華講員も創価員も共通している。だからこそ教学なのである。これは実際に創価男子部時代に経験済みだが教学を学ぶと必ずその覚えた教学を誰かに話したくなるのである。インプットしたことをアウトプットしたくなるのは人間だれしもが持っている性質である。教学で覚えたことは誰かに話したくなるのである。信仰体験がない講員でも仏教の話を自然とできるようになる。人によっては仏教の話をしたくて仕方なくなる。当然、折伏成就するし自分の信心も強化される。インプットとアウトプットを繰り返して成長していくプロセスは全ての事項に共通する。折伏が苦手な人に足りないのはインプットなのである。誰かに話したくなるようなネタが少ない。教学は正に尽きることのないネタの宝庫だ。教学をどんどんインプットしていくが折伏・育成に大いに役立つ。何も最初から小難しいことを覚える(教える)必要もない。ちょっとしたトリビアでいいのである。ちょっとしたトリビアの方が話しやすいしね。私も友人との会話の中でちょいちょい仏教トリビアをぶち込んでちょっとした法話を催して下種してます(笑)。法華講のみなさんもぜひ教学を学んで仏教トリビアを友人たちに披露してみてください。意外と弘教の役にたちますよ。

 

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