創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

『如在の礼』・2022夏。

暑くなってきましたね~。もう朝から暑いです。海でも川でもプールでもいいから水辺が恋しい季節です。

そんな感じで梅雨明け後から我が家の御仏壇に団扇を置いています。今年、初めお仏壇に団扇を置きました。もちろん自分のことを扇ぐわけではないですよ。御本尊様専用の団扇です。昨年の事ですが御僧侶から『如在の礼』という話を聞きました。創価では聞いたことなくて、創価版の仏法大辞典にも掲載されいない言葉です。一般的な意味としては「神仏が目の前にいるかの如く礼を尽くす。」という事です。法華講にとっては自宅の御本尊様を生身の大聖人と思って尽くしていくということですね。日興上人は大聖人が御入滅後も御本尊の前に御影を置き御供養の品々を都度その御宝前にお供えしています、日亨上人は、『(第二祖日興上人が)些細の供養も一々宗祖御影の見参に供へて、如在の礼を本仏大聖に尽し給ふ』とこうした日興上人の姿を『如在の礼』を尽くした姿であり、そうした心で御本尊に対していきなさいと御指南されています。以前、仏壇を荘厳するという話をしましたが例えばお仏壇やその周辺を掃除するのはただ単に部屋が散らかっている、汚れているいるから掃除するのではなく大聖人様を散らかっているような部屋、汚れているような家(仏壇)に置いておかれるのは申し訳ないと気持ちが大切なんですね。

★過去記事はこちら▶信は荘厳より起こる(生ず) - 創価ダメだしブログ

確かに創価時代も御本尊様は人法一箇で大聖人でもある。とは教えてもらったし自分でもそのように教えてきたけど当時の自分を振り返ればそれは言葉だけの稚拙な指導だったと反省しきりです。お給仕もまともにできなかったし、仏壇や仏間の掃除も単なる世間一般的な単なる掃除という感覚で『如在の礼』を尽くすような気持ちはなかったと思います。以前から書いていますが創価や学会員は御本尊が仏様・大聖人であるというな感覚が希薄なんですよね。なにせ池田センセが言うには御本尊は「幸福製造機」であり「単なるモノ」ですからね。学会員は宇宙の法則を図顕化したのが御本尊であるといいます。そこには御本尊が仏様であるという考えがありません。それに加えて伝統的な化義については「単なる形式で信心の本義ではない」ときてるものだから本当にお給仕などは教えてくれないし、教えてくれたとしても適当だし煩く指導されないので分からないし覚えられないのです。ですから実にお恥ずかしい限りですが正宗に移籍してから色々と学ばせていただいています。それは凄く有難いことですし自身の信心深めることができて感謝しています。信心を深めるのは教学だけはダメだということも分かりました。いくら頭で「人法一箇」が分かっていても実際に御本尊を「人法一箇」として敬う心と行動がなければ分かっていない事になります。さて、御僧侶からの『如在の礼』の話の時に、「夏の暑い日などは団扇などをお仏壇にお供えし御本尊様に不便をおかえしないようにすることが大切です。」との話があり、それで今年の夏はこうして団扇をご用意させていただいた次第です。ただ今は、意識してお給仕などをしないと御本尊に対して欠礼することも多くまだまだ『如在の礼』が足りない部分がたくさんあり反省することばかりです。いつかは無意識のうちに御本尊に対して心をこめた礼を尽くせるようになりたいと思っています。因みに今年の冬は御本尊・大聖人が寒くないように『電気カイロ』をお供していました。火を使わないので火災の心配はありません。もちろんアマゾンです(笑)

 

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