創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

御供養の金額。

いままで折伏した人達に「御供養の金額はいくらですか?」という質問をよくされる。私も毎月の御講や御登山の時に毎回御供養をしていますが最初はやはり地区長さんや講頭さんに御供養の金額を聞きましたが、「いくらでもいいんだよ」という答えで途方にくれました。(笑)そこで自分が出した答えは【自分が気持ちよく御供養できる金額】ということで落ち着きました。だからいまでも他の人に御供養の金額を聞かれると「自分が御供養をして気持ちいいって思える金額でいいんじゃない」と答えています。多く出して「勿体なかった」とか、少なすぎて「ケチったな」とか思って御供養しても意味がないじゃないですか。だから【自分が後悔しない金額】が一番いいと思って毎回御供養させていただいています。さて、先日SNSで「1000円の御供養だと恥かしい」というツイートがありリプしました。池田創価のように「こんなに多額の供養をしてやった」というような心根は論外ですが、「少なくて恥ずかしい」というのも私的にはちょっと違和感があります。「恥かしい」と思うのはそこに見栄つまり名聞があるからで恥や外聞を気にするのは御供養の精神から外れると思うのです。日蓮大聖人は御供養について

◆弁房の便宜に三百文今度二百文給び畢んぬ、仏は真に尊くして物によらず、昔の得勝童子は沙の餅を仏に供養し奉りて阿育大王と生れて一閻浮提の主たりき、貧女の我がかしらをおろして油と成せしが須弥山を吹きぬきし風も此の火をけさず、されば此の二三の鵞目は日本国を知る人の国を寄せ七宝の塔を忉利天にくみあげたらんにも・すぐるべし(王日女殿御返事)

と御教示されています。仏様(御本尊・大聖人)は真に尊いので御供養の多寡に関わらず等しく受け取って下さり御供養の金額で差別などしないのです。他の御書によく「銭一貫」と書かれていますが一貫は1000文ですからそれから比べると当御文に書かれている王日女殿の御供養した200~300文という金額は少額です。それでも大聖人は「この二百文、三百文のお金は日本国を治める人が国を供養し七宝で飾られた塔を忉利天にとどくほどに組み上げて供養したよりも優れている」と言われています。ですから金額の多寡で驕ったり恥じることはありません。正宗の御僧侶方も、

◇人の志を仏聖人へ取り次ぎ申さん心中大切なり、一紙半銭も百貫千貫も多少ともに志の顕はし物なり、あらわす所の志は全く替るべからず、然る間同等に多少軽重の志を取り次ぎ申すべし、若し軽重の心中あらば必ず三途に堕在すべし云云。(化義抄第2条)

との化義抄を弁えられていますので少額であっても恥かしい事は何もありません。取り次ぎをされる御僧侶がもしも金額が少ないなどと思えばその御僧侶が三悪道に堕ちるだけの事です。とはいえ法華講員さんが「恥かしい」という気持ちの中には「申し訳ない」という心も含まれていると察します。恥かしいのではなく申し訳ないというのが本音でしょう。それは私も時折思います。だから私は御供養のお金に題目の御供養を足すようにしています。御講や御登山の前には御供養の入った多当をお仏壇にお供えし当日まで唱題の御供養を申しあげ、「申し訳ない」分に充ててます。そうすることによって冒頭に書いた【自分が気持ちよく御供養できる】状態になります。創価や顕正民は法華講が御供養をむしり取られているとか御供養のノルマ地獄とか正宗を誹謗中しますが彼等が言っていることは全部ウソです。彼等こそ機関誌のノルマにひと口1万円と最低金額が設定された財務(供養)を強要さているのです。自分達が金銭を半強制的にむしり取られているので法華講も同じ目に遭っていると思いたいのでしょう。(笑)700年以上の伝統をもつ日蓮正宗創価や顕正と言った戦後生まれの怪しい新興宗教と同じでして欲しくないですね、法華講にはそんな最低金額の設定などありません。金額設定されているのは私の知る限りでは塔婆供養だけでそれすら他宗に比べると半額以下で強要されることもありません。正宗の御供養は僧俗共に「させていただく」の精神が基本ですから強要なんてありえません。これからお経回りも始まりますがそれすら信徒にその気がないなら御供養を包まなくてもいいのです。いずれによ、御供養の金額はその多寡にこだわるのではなく「自分が気持ちよく御供養をさせていただいている」と思える金額が良いと思います。池田創価はよほど正宗に御供養するのがイヤだったんでしょうね。「返せ」とかいいますから。その言葉は大聖人に向かって吐いているという事を分かっていないのでしょう。

 

▼一日「イチ押し」お願いします!

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会 批判・告発へ
にほんブログ村


創価学会ランキング