創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価学会員のHさんへ。

こんばんは。以前コメントをいただき「質問」をされた方だと思いますが、

Hさんの質問については当ブログに何度も書いてあるのでそちらをお読みくださいと返信させていただいたと思います。

ただ、今回のコメントでは「質問」ではなく「対論」をお望みとのことなので、

もう何度も書いていますが改めて貴方の疑難への回答をいたします。

枝葉の細かい話は議論が拡散するので省略して、Hさんの今回のメインの疑難である「法主絶対論」について回答します。

まず結論からいうと、正宗に「法主絶対論」などという教義はありません。

その上であなたは(以下太字はHさんのコメント)

「唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にまします」

という所謂能化文書を引用していますが、あなたはこの能化文書の内容を知っているのですか?

この文書の内容とは

「本宗の根本は、戒壇の大御本尊と唯授一人の御法主上人であります。具体的には、御法主上人の御指南に随従し、御本尊受持の信行に励むことが肝要です。なぜならば、唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にましますからであります。したがって、この根本の2つに対する信心は、絶対でなければなりません」

こうです。よく読んでください。この文書のポイントは「具体的には、御法主上人の御指南に随従し、御本尊受持の信行に励むことが肝要です」

というこの部分です。法主のご指南を学び御本尊受持の信行に励む。これのどこが法主絶対論・法主信仰なのですか?「御本尊受持」と書いてありますよね。「受持」とは「帰命する」という意味です。つまり「御本尊に帰命」するために法主のご指南に随従するのです。何故なら御本尊に関する法門法義等は唯授一人血脈相承されているからです。この法体相承の所(歴代聖人の御内証)

が「血脈の当処」でありそれは「戒壇の大御本尊と不二」であることは当たり前のことです。血脈は法体から流れているのですから血脈を遡れべ法体に帰結するのです。そんなことは道理であると思います。もしそれを法主絶対論というならば大作センセの指導に従うのは「大作絶対論」となります。ご指南に随従することと帰命の対象にすることが同義であれば、大作指導に随従することは大作に帰命することななるんですか?違うでしょ。

また「どんな僧侶でも相承を受けた以上は生身の釈迦日蓮であり誹謗すると地獄に堕ちる」

との文章を引用していますが、この日顕上人の言葉は、平成9年の教師講習会で、法詔寺・日感師が信徒に宛てた書状を日顕上人が紹介し読んだものであり日顕上人自身の発言でないし、また同じ講習会で日顕上人は、「私はけっして日顕が、日蓮大聖人様だなんて、一遍も言ったことはない」と言われているのをあなたは知っているのですか?創価発表の切文だけで批判しているとしたら実に勉強不足としかい言いようがありません。

次に、「日蓮大聖人の内証と代々の法主の内証が等しい」と主張しておられます。日蓮大聖人の内証は久遠元初の自受用身ですが、代々の法主の内証が日蓮大聖人と等しいということは「代々の法主は本仏である」と主張するのと同じですがいかがですか。それとも内証は久遠元初の自受用身であっても外用は久遠元初の自受用身ではないから本仏ではないと主張するのですか」

とのご質問ですが、色々とツッコミどころがありますけど、簡潔にいいます。Hさんは「三宝」の立て分けを知りませんね。三宝には「一体三宝」「別体三宝」「伝持三宝」という立て分けがあります。「一体三宝」とは「内証」において三宝が一体であるということで、「別体三宝」とは外用による立て分けで創価の立てる三宝はこの別体三宝です。そして「伝持三宝」とは化導における立て分けで

文底下種三宝の令法久住と、末法万年の衆生救済の意義から拝する三宝で、ご歴代の上人は「僧宝」と立てるのが古来より日興門流の教義なのです。日寛上人は次のようにご指南されています。

◇ 「問う、三宝に勝劣有りや。「答う、此れ須く分別すべし、若し内体に約さば実に是れ体一なり。 所謂法宝の全体即ち是れ仏宝なり、故に一念三千即自受用身と云い、又十界具足を方に円仏と名づくと云うなり。 亦復一器の水を一器に写すが故に師弟亦体一なり、故に三宝一体也。 若し外相に約さば任運勝劣あり。 所謂、仏は法を以て師と為し、僧は仏を以て師と為す故也。」(三宝抄)

◇「日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む、其の次に仏法相属して当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり、 此の法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ故に、生身の聖人に値遇結縁して師弟相対の題目を同声に唱へ奉り信心異他なく尋便来帰咸使見之す、 何ぞ末代の我等三十二相八十種好の仏に値ひ奉るべき、 当代の聖人の信心無二の所こそ生身の御本尊なれ、」(抜書雑々集・左京日教師の「類聚翰集私」より引用)

◇「今に至るまで四百余年の間一器の水を一器に移すが如く清浄の法水断絶せしむる事無し、蓮師の心月豈此に移らざらんや」(文底秘沈抄)

いまここで日寛上人の文証を引用したのは、「唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体」であるということは、平成になって日顕上人が言いだしたのではなく、それが古来からの日興門流の教義であるということを言わんがためです。つまり、牧口・戸田・池田の三代会長が入信した時から正宗の教義は、「唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体」なのですよ。それが法主絶対論というならば三代会長はそれを知っていて自分たちも入信し多くの学会員を折伏したということになります。

また法華講の三座のご観念文は、

南無本因妙の教主、一身即三身三身即一身、三世常恒の御利益、主師親三徳、大慈大悲、宗祖日蓮大聖人、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為に。

南無法水瀉瓶、唯我輿我、本門弘通の大導師、第二祖白蓮阿闍梨日興上人、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為に。

南無一閻浮堤の御座主、第三祖新田卿阿闍梨日目上人、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為に。南無日道上人、日行上人等御歴代の御正師、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為に

となっています。大聖人と日興上人そして日目上人以下は明らかに違いますね。大聖人はご本仏・日興上人は大導師・日目上人以下のご歴代は座主です。法主本仏論があるならばこのようにご観念文を立て分ける必要なないでしょう。このご観念文を朝夕読んでいる法華講員が歴代法主がご本仏であると思う訳ありませんし宗門が信徒に「法主=本仏」などと教えていない証拠です。

対する創価はご祈念と称する中には、

創価学会初代会長 牧口常三郎先生、第二代会長 戸田城聖先生、第三代会長 池田大作先生を広宣流布の永遠の師匠と仰ぎ、その死身弘法の御徳に報恩感謝申し上げます。

などと書いてありますが、Hさんのいうところの御書のなかに、「創価学会の三代会長が広宣流布の永遠の指導者である」と述べられている文証がありますか?ないですよね。ではこれは「創価の邪義」というとですね。自分たちが邪義を構えておいて日興門流の教義を邪義呼ばわりするとは一体どういう神経なのか私にはわかりませんね。

いづれにしても、正宗の教義にない「法主絶対論」が存在するというのであれば、日顕上人のご指南のなかで「法主絶対論」や「法主本仏論」を唱えたご指南があるはずでしょうから、それを「文証」として提示してください。能化文書の切文と日感師の書状を読み上げた部分だけあげつらって「法主絶対論だ」などと言っているのでは何とも作為と悪意しか感じません。。因みに戸田・池田両会長の昔の指導や著書には、歴代法主に随従せよとの文言は腐る程あります。当然「法主絶対論」のご指南も腐る程あるはずでしょうから、是非そのような文証を提示してください。それが提示できなければあなたの言う「法主絶対論」、などというのものは正宗の中には存在していないということになります。またHさんが創価に騙されているいう証拠にもなります。(日顕上人の法主絶対論のご指南に関しては「ある」なら提示する。ないなら「無い」とハッキリ明言してください。それ以外の回答は不要です)

では、最後に「対論」というからには私からも質問させてもらいます。

創価学会は「戒壇大御本尊を始めとする真筆・書写本尊は全て等しく本門の本尊である」と言っていますが、

「本門の本尊」であるはずの戒壇大御本尊を受持しないという教義の正当性を回答してください。

ではよろしくお願いします。


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