富士門流ではないですが五老僧の略伝を書いてみたいと思います。とはいっても五老僧に関しては日蓮正宗サイドには五老僧についての詳しい書物もありませんし身延日蓮宗等の他門流は史実にはないことや真偽の怪しい史料などを採用した伝記を伝えているので五老僧の詳細についての他門流の伝記は信用できない部分があります。また法華講にとっては五老僧の伝は重要事項でもないので私自身も五老僧に関して時間をかけて学ぶことはしません。そんなわけで【超略伝】になりますが法華講員としてのミニ知識として読んでいただけばと思っています。五老僧の事を少しでも知っていると日興上人とのコントラストがより濃く浮かび上がり大聖人門下の他門流が異流であることが更によく分かると思います。それでは前置きが長くなりましたが、第1回目は弁阿闍梨日昭の超略伝を書きたいと思います。日昭は承久3年(1221)下総国(千葉県)海上郡能手郷に生まれ大聖人より1歳年長です。父は印東祐昭・母は工藤祐経の娘と言わています。15歳の時、郡の天台宗の山寺に登って出家し成弁と称しました。大聖人の御書中【弁殿】と書かれているのは日昭のことです。その後比叡山に登り尊海法印に学びました。そのころ大聖人も叡山に在りましたので学友として叡山で学んでいた可能性は大いにあります。建長5年(1253)に大聖人が立宗した年に松葉谷の草案で大聖人に弟子入りし日昭と名付けられました。大聖人の2度の流罪そして身延入山後も日昭は常に鎌倉に残っていました。竜の口法難・佐渡流罪の時は大聖人門下が次々と退転していく中で鎌倉に残った信徒を統率し教団を保持していたという事になります。池上宗仲が勘当された時には種々斡旋し兄弟を支えていたとも言われています。また大聖人が身延入山後は鎌倉の状況を身延に知らせる役目も務めていたようです。大聖人ご入滅後は日興上人と共に大聖人の御灰骨を抱いて身延に入山し日向・日頂を除く他の老僧達と墓所輪番の取り決めをし大聖人100箇日法要の後に身延下山したのですが、その時に大聖人の『註法華経』を無断で持ち去りました。日蓮宗各派は大聖人からの形見分けだったとの主張をしていますがその主張には多くの瑕疵があります。これについてはいずれ別記事にしたいと思います。『註法華経』を持ち去った日昭は結局その後再び身延を訪ねることはありませんでした。身延派では鎌倉での宗門への重圧が強まったので身延へ行けなかったと主張していますが、史料を読む限りでは身延の地頭・波木利日円との確執が身延不参の理由だと思われます。また『註法華経』を盗み取った後ろめたさもあったのかもしれません。いずれにせよいかなる理由があったとしても皆で決めた墓所輪番の約束を反故にするのは門下の長老として由々しき行為であると言えます。さて鎌倉での日昭の拠点は浜土の住坊で日昭門流は【浜門流】と言われます。日昭は正安2年(1300)には叡山に旧師・尊海を訪ね権律師に任命され後に法印に任命されました。これにより日昭滅後の浜門流の諸師は叡山の戒壇に登ったといわれ諸門流から批判されたと日親(鍋かむり上人)の『伝灯抄』に書かれています。また日昭の壇越に越後村田の領主・風間信昭という者があり彼が鎌倉に在住していた時に名瀬に妙法寺を興し日昭に寄進しました。浜門流(日昭門流)においてはこの妙法寺系を村田系・妙法華寺を浜戸系と称してます。徳治2年(1307)に妙法寺を日成に文保元年(1317)に日祐に附属した日昭は元亨3年(1323)に浜の妙法華寺にて入寂しました。実に103歳でした。大聖人門下の長老として鎌倉周辺の門下を統率してきた日昭ですが生涯にわたり天台宗の習気が抜けず大聖人の仏法を天台のそれと混同していたように思われます。今日では、日昭門流の妙法華寺・妙法寺ともに一致派・身延日蓮宗となっています。存命の時は身延に近寄りもしなかった日昭の末裔が身延派になるとは皮肉なものです。
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