法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる、いまだ昔よりきかずみず冬の秋とかへれる事を、いまだきかず法華経を信ずる人の凡夫となる事を、経文には「若有聞法者無一不成仏」ととかれて候。
今月の座談御書は『妙一尼御前御消息』。これも以前やったことがある御文です。同じ御文を繰り返し取り上げるのは重要だからなのか手抜きなのか分かりませんけど創価民には8000円もするような御書は無用の長物ですよね~。
●過去記事はこちら▶ 創価教学じゃない御書講義(29年度2月座談会御書・妙一尼御前御消息) - 創価ダメだしブログ
前回の講義で、「法華経を信じる人は難に遭う」というような話をしましたが、だったら法華経を信じない方がいいという人の為に今回はなんで難に遭うのか説明します。「難」というのは人生における様々な「苦難」という意味ですが当たり前のことですが「苦難」は法華経(御本尊)への信不信を問わず誰しもが味わいます。ではその苦難の原因とは何かと言えば過去の悪業です。
◆我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん(中略)是は常の因果の定れる法なり(佐渡御書)
◆経文を見候へば烏の黒きも鷺の白きも先業のつよくそみけるなるべし外道は知らずして自然と云い今の人は謗法を顕して扶けんとすれば我身に謗法なき由をあながちに陳答して(佐渡御書)
本人がどう思おうと科学的に証明されていなかろうと世の中の全ての現象は因果の理法から逃れられません。因と果は別々に存在することはありません。他人の犯した罪の責任を負う事はありません。ですから信仰の有無に関わらず、「いい事」も「悪い事」もそれらから逃れることは出来ません。では、何故「法華経(御本尊)を信じる人」をことさらピックアップするのかというと、法華経(御本尊)を「信じる人」と「信じない人」では逢難の意味が違うからです。「法華経を信心しない人」の苦難はこれから未来際まで続くのです。来世もその次もその苦難の大小は各個人によりますがずっとどこでまで続きます。何故なら「法華経を信じない」ということ自体がすでに誹謗正法(謗法)ですからいつまでたっても「苦難の因」を作り続けるからです。対して「法華経(御本尊)を信じる人」の眼前の苦難はその実は苦難でなく功徳なのです。まぁ苦しい功徳はあまり欲しくはばいですが、
◆涅槃経に転重軽受と申す法門あり、先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱつときへて死に候へば人天三乗一乗の益をうる事の候、不軽菩薩の悪口罵詈せられ杖木瓦礫をかほるもゆへなきにはあらず過去の誹謗正法のゆへかとみへて其罪畢已と説れて候は不軽菩薩の難に値うゆへに過去の罪の滅するかとみへはんべり(転重軽受法門)
との御妙判にあるように、「法華経(御本尊)を信じる人」の苦難とは自分の過去からの謗法や悪業の重罪が原因で未来際まで続くはずの苦難を御本尊の功力で今軽く・短期間に済ませてもらえているという事なのです。これを【護法の功徳力】といいます。ですから、「難に遭うのなら信心をしない」というのは、こっちのサラ金の返済を別のサラ金から借りて返しているようなのもので、最後には自分ではどうしようもないほどの大きな謗法の借金で破綻して身を滅ぼしてしまいます。ましてや法体である戒壇大御穂本尊を自分でも捨て他人にも捨てさせるという大謗法の創価民たちはサラ金どころか闇金・裏金で謗法の借金の自転車操業をしているだけで創価民のいう功徳とは「今日は闇金からの取り立てがなかった」というような話で、やがて来る無間地獄への破滅の時までの仮初の平穏でしかありません。創価民は大聖人の真筆と書写の御本尊は「すべて等しく本門の本尊である」という邪義・我見で誤魔化していますが譲って創価の我見が正しいとしても創価が認定した本尊以外は戒壇大御本尊を筆頭に身延や保田等の本尊を捨てています。つまり創価の定義する大多数の「本門の本尊」を捨てているのです。これが大謗法ではないなら一体なんだというのでしょうか。大謗法の創価民の苦難は転重軽受でありません。大謗法という借金の利息の一部を返済しているだけで元金(謗法の悪業)は減らないどころか増える一方なのです。ですから一日も早く学会活動を停止し創価を退会し戒壇大御本尊の許に戻ることが肝要なのです。創価にいては「春」は来ません。待っているのは大氷河期だけです。今月の座談会を最後に創価から離れましょう。
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