私は自家用車で総本山に御登山するのですが、最初に目に飛び込んでくるのが『三門』で、大石寺のランドマークだと思っています。この三門に御供養したのが、徳川幕府第六代将軍家宣の正室の天英院殿です。
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天英院は、寛文六年(1666)に、父・太政大臣近衛基煕(このえもとひろ)、母・第109代後水尾天皇(ごみずのうてんのう)の皇女品宮(常子内親王)の子として京都に産まれました。つまり天英院は天皇の孫になります。近衛家は公家の筆頭格で朝廷の中だけでなく世間的にも重要な地位にありました。幼名を熙子(ひろこ)といい、熙姫、豊姫と呼ばれていました。天英院の乳母の子供が常泉寺第七代住職を勤められた日顕贈上人という方で、日蓮正宗に深縁だったと伝えられています。日顕贈上人は、もとは西山本門寺の僧侶でしたが、後に日蓮正宗に帰伏し常泉寺の住職になった方です。西山本門寺の記録によると、近衛家は天英院の母の品宮が近習の中務卿の勧めにより、延宝三年(1675)に西山本門寺に帰依したとなっています。天英院が10歳の時の事です。13歳の時に、甲府藩主松平綱豊(後の徳川幕府六代将軍家宣・三代将軍家光の孫)との婚儀が整い、その30年後に綱豊は47歳で第六代将軍家宣になり、それに伴って天英院は徳川家の御台所として江戸城の本丸に入り、寛保元年(1741年)に亡くなるまでの間、徳川幕府を裏方で支えました。『続家中抄』には、25世御法主日宥上人を天英院が外護したことについて、「正徳二年壬辰年の夏、三門造営に就いて、公儀より金子及び富士山の材木御寄進下し置かるるなり。」と書かれています。この尊い御供養のお陰で我々法華講員はあの素晴らしい三門を目にすることができるのです。また天英院の強い要望により当時は事実上廃止されていた独礼席が大石寺の法主上人に許可されました。独礼席とは、将軍と単独で面会をすることができる特別な地位です。このことを鑑みても天英院の篤い信心が伝わってきます。このように大石寺の長い歴史のなかには、昭和生まれの創価や顕正会などという異流義には到底真似する事の出来ないような事実が有るのです。天英院はまた、第26世日寛上人と共に五重塔の起塔の志を立てその基金を残しています。私達も天英院の護法の精神を見習い徳を積み、いつの世にか天英院と同じ事が出来るような境涯になりたいですね。天英院のお墓は五重塔を見上げるように佇んでいます。戸田城聖のお墓も同じ場所にあります。戸田は天英院と比べるとかなり下品ですが、戸田も天英院同様に大石寺を外護した大信者です。

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