前田綱紀公は寛文元年(1661年)に加賀藩の第五代藩主になりました。加賀藩の江戸藩邸の近隣に常在寺があり、その縁で綱紀公は常在寺に参詣し日精上人の説法を聴聞し、日蓮大聖人様の教えに触れ富士大石寺の信仰の素晴らしさを知り、家中の人々に常在寺に参詣し日精上人の説法を聴聞するように勧めました。日精上人の説法を聴聞した家臣達は次々と入信し法華講になりました。綱紀公自身は内得信仰だったといわています。そのようにして江戸から金沢に帰った法華講衆は金沢で折伏に励み、延宝八年(1680年)には金沢法華講を結成するまでになり、総本山へも登山して御本尊様の御下附も受けていました。前田綱紀公の信仰は「仏法の御内得に取りては、松雲院殿(綱紀)第一と存じ候。その故は、松雲院殿の御事、御内証には仏法の邪正を弁ひ、外用には人々を勧めて邪正を捨てしめ正法を信受せしむるの故也。」(加賀法華講 竹内八右衛門の書状)と記録されていて、大聖人の御書のみならず、『本因妙』等の相伝書も読んでいて、「八宗九宗の中には日蓮宗第一なり。日蓮宗の中には富士大石寺の弘通秘法第一なり。その故は日蓮聖人付法の弟子と申すは唯だ日興一人なり。」(同上)と富士日興門流の教義を知悉していて、「加賀・能登・越中三箇国の内に早速流布の御家中には多く内得信仰の人々ありき」(同上)と折伏もしていて、まさに信行学が揃っていたようです。前田家では後に、大聖寺藩第十代藩主・前田利極(としなか)の正室だった勇姫(ゆうひめ)が入信しました。大聖寺藩は前田家(本藩)から分かれた藩で、現在の石川県加賀市です。勇姫の入信動機は、①結婚して3年で、夫・利極が27歳の若さで病死したこと。②その翌年に一人娘を2歳で亡くしたこと。③勇姫が病気がちであったこと。だとといわれています。教化親は勇姫が病床の折に看病していた、桑島という老女で、当時は金沢法難の最中でありながら、桑島や法華講衆が勇姫を懸命に折伏をし、その主人を想う家臣の姿に心を打たれた勇姫は入信をしたそうです。そして病が癒え功徳を実感した勇姫は側近の女中衆たちなど多くの人々を折伏し、妙喜寺(石川県金沢市)の建立に尽力しました。勇姫のお墓は遺言により常泉寺にあります。また総本山にも墓地があり、その後、代々の藩主は日蓮正宗の信徒となりました。
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