創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

五老僧超略伝②大国阿闍梨日郎

大聖人の2番目の弟子の大国阿闍梨日郎(筑後房)は寛元3年(1245)4月生まれで日興上人より1歳年長です。父は能手郷平賀二郎有国、母は印東氏の出で有国死後に平賀忠晴と再婚し日像・日輪の2子をもうけました。建長6年、日郎16歳の時に松葉谷の大聖人の許を訪れて弟子入りしています。日郎の史実として有名なのは『土籠御書』に書かれているように竜の口の法難の際に入牢させられた一件です。後年他門流では日興上人を差し置いて「日郎が給仕第一である」と伝えられているように日郎伝説は色々あって、例えば大聖人に伊豆流罪の時に同行したかったが願いが叶わず大聖人を乗せた船が見えなくなった時に悶絶した。とか竜の口の法難の際に役人によって右肘を打たれ生涯右手が不自由だった。とか佐渡に幕府からの赦免状を持って行ったなど伝えられていますがどれも信憑性が低く後世の人間による作り話であることが濃厚です。特に佐渡における日郎伝説は「日郎坂」などに見られるように現在でも残っていますが、日郎が佐渡に渡ったという史料な何一つありません。日郎門下の一致派が佐渡に渡ったのは直江兼続に庇護されたいた妙覚寺・日典の時代(戦国末期)と見られ、そこから一致派が日興上人の佐渡教化の御事績を消し去り代わりに日郎伝説を流布したものです。また大聖人御遷化にあたり大聖人が所持されていた一体仏を身延から盗み取ったのが日郎です。日昭の盗んだ『註法華経』とともに偸盗の事実を隠すために『御遺物配分帳』 (通称・池上本)なる偽書を作り大聖人から形見として正式に貰ったなどと主張しています。大聖人身延入山後も日昭同様に鎌倉に残り大学三郎寄進の比企谷の住坊を中心に活動をしていたので、日昭の「浜門流」に対し日郎門流を「比企谷門流」と呼びます。また池上本門寺・平賀本土寺も日郎の拠点となっていました。日郎門流は多くて20流派程度の分立したと言われていますがそれは俗にいう九鳳(または九老僧)と呼ばれている弟子が日郎にはあったからです。(日像・日輪・日印・日伝・日範・日澄・日善・日行・朗慶)なかでも、日像・日輪・日印の三流派が良く知られています。日像は前述のように日郎の弟で京都四条にあり日像門流を「四条門流」と呼びます。日輪は日像の弟で池上・比企谷の両山を継承しました。日印は古記によると日郎門下の三箇の重宝(立像の釈迦仏・立正安国論・御赦免状)を盗み取り本勝寺を立てて日郎の正嫡であると主張したとのこと。どちらにせよ日郎門流の根本分裂の一番最初はこの日印によって起こされました。その後日印の弟子の日静が京都・六条堀川に本国寺(後に本圀寺と改名)を建立し足利氏の外護により日像(四条門流)門家と二大拠点となりました。この日印の流れを汲むのが「六条門流」です。さて自身の滅後弟子たちが分立することなど思いもせず、日郎は元応2年(1320)正月21日に池上南窪にて76歳で入寂し安国論寺にて荼毘に付され、法性寺に葬られました。日郎も弘安8年の北条貞時の諌暁の申状には天台沙門と名乗り「伝教大師の流れを汲む」などとの文言もあることから大聖人を御本仏と拝せなかったのか或いは幕府からの迫害を恐れたのかその両方なのかわかりませんが、優秀な弟子を9人も育成した力量があるのに実に残念な人だと思います。

 

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