今回はサカイさんの質問に答える形で「御書拝読の基本」について書きます。教学全体の体系に関する考察はいずれ別記事で書きますが、サカイさんの疑問は大聖人が御書のなかで相反することを言われているがどうしてなのか?ということですね。確かに、
◆行者は必ず不実なりとも・智慧はをろかなりとも・身は不浄なりとも・戒徳は備へずとも・南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給うべし(祈祷抄)
と真実ではない信心(不実)でも題目をとなれば必ず守られると言われたかと思えば、
◆我弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し( 顕立正意抄)
と大聖人の弟子であっても信心が弱いと無間地獄に堕ちると言われ、「一体どっちなんですか?」と混乱しますよね。私も昔はサカイさんと同じ疑問を持ちました。その疑問を解決するのにはまずは最初に御書の基本を知ることです。基本とは「御書は対機説法である」ということです。御書は弟子・信徒それぞれの信心の厚薄浅深に合わせて御指南されている書物なのです。いまでこそ御書全集で全て読めますが基本的に御書は各弟子・信徒にそれぞれ個別に与えやれたお手紙なのです。そして確かに御書には法門法義が書かれていますが「法体」についての直接的な御教示はほぼありません。大聖人が御本仏であることどころか外用・上行であるという事を直接的に書かれているのは相伝書である『百六箇抄』だけです。何故ならば大聖人ご在世当時の信徒は種脱相対を理解すまでに至っていない方が大半なのです。創価員は戒壇大御本尊の事が御書に書かれていないというけれど、ご在世のほとんどの弟子・信徒に対して大聖人が御本仏であることすら秘しているのですから戒壇大御本尊の事を御書に書くわけないのは当たり前の話です。そんな状況で法体である戒壇大御本尊を示しても却って不信を与え弟子・信徒を本当に無間地獄に堕としかねません。では大聖人は何のために御書を書かれたのかというと、弟子・信徒を化導するためなのです。つまり法体を教えるのではなく修行を教えるために御書を書かれたわけです。正しい修行を教えれば敢えて法体を示さなくても自然と成仏するからです。(ご在世の時は生身の大聖人が法体だからです)前回の御書講義でしましたが、法体(戒壇大御本尊)は随自意なので難信難解ですが修行に関する教えは随他意なので易信易解ですから弟子・信徒の機根に合わせて説法したのが御書です。さて仏法における化導方法は「勧誡二門」に尽きます。これはどの宗派も同じで仏法全体の共通事項です。「勧誡二門」については以前も記事にしたので重複しますが、「勧門」とは信心を励まして化導することで「誡門」とは信心を戒めて化導することです。つまり、上記の『祈祷抄』の御文は【勧門】の化導であり、『顕立正意抄』の御文は【誡門】の化導です。いわば摂受と折伏、顕正と破邪のようなものですから一見、相反するように思うのです。しかしこれらの相反するように見える御文もその根底は一大秘法である戒壇大御本尊(日蓮大聖人)への信心に導いているのですから実は全く相反していないのです。叱咤するか鼓舞するかの違いでありどちらも信心を激励されいるのです。そこで我々がこのような相反する御書に触れる時にはどちらか一方を選択するのではなくどちらの御指南も素直に聞くことが肝要です。創価教学のダメなところは常に「切文」読みのところです。上記の二つの御文も切文で読めば相反してしまいます。このような一見相反している御文はたくさんあります。しかし、御書が対機説法でその目的・主眼が化導にあるという御書の基本を押さえていればそこに全く相反するような御指南はないと分かると思います。創価切文御書解釈では絶対に御書を正確に理解することはできません。御書根本ならば戒壇大御本尊を受持しないという結論は出ないのです。何故なら前述したように御書をかかれた目的は一大秘法・戒壇大御本尊に弟子・信徒を導くためなのですから。余談も書きたかったところですが長くなってしまいますので今回はここまでとします。もちろん、異論も受け付けます(笑)
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