創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価教学じゃない御書講義(2019年10月座談会御書・可延定業書)

◆命と申す物は一身第一の珍宝なり一日なりともこれを延るならば千万両の金にもすぎたり

今月の座談会御書は「可延定業書」。またかよって感じですね。たまにはいままでやったことのない御書を取り上げてもらいたよね。これは絶対本部の手抜きでしょ。それとも創価民はすぐ忘れちゃうから何度も同じ御書をやってるんですかね(笑)とはいえ御書は何度同じ御文を読んでも新しい発見があるんですよ。だから何度も読むのはいいことです。創価教学じゃなければね。

今回の御文は読んだ通り「命」というは一番の宝だから大切にしよう。ってことです。大作風にかっこつけると「生命の尊厳なんちゃら」って感じですかね。日顕上人の御遷化に際して喜んだり面白がったりしているような創価民に「生命の尊厳」なんていう感覚は見当たりませんが偽善者のダブスタこそが創価学会信仰なのでそこは仕方ないでしょう。

さて、今回の御文と同様な御書の一節は例えば、

◆いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、遍満三千界無有直身命ととかれて三千大千世界にみてて候財もいのちにはかへぬ事に候なり(白米一俵御書)

などたくさんありますが、じつは同様に命を惜しんではいけない。という御文は「命を大切に」という御文以上にたくさんあります。

◆命限り有り惜む可からず(富木入道殿御返事)

◆設ひ命に及ぶともすこしもひるむ事なかれ(兵衛志殿御返事)

◆各各我が弟子たらん者は深く此の由を存ぜよ設い身命に及ぶとも退転すること莫れ(法華行者逢難事)

などなど。一方では「命を大切に」といい。もう一方では「不惜身命」と言ってるわけで一見すると正反対の事を言ってるようだけどちゃんとつながっています。本文に即していうと「命」とは寿命のことです。この寿命を「定業」といいます。「定業」とは創価民がよく使う「宿業」と同意で一般的に使う「宿命」とか「運命」とか同じです。要するに「最初から決められている事」です。この「定業」は倶舎論によると、「受ける果報が決まっているもの」「受ける時が決まっているもの」「受ける果報と時の両方が決まっているもの」があります。本文で大聖人が母上の寿命を延ばしたのは「受ける時(死ぬ時)が決まっているもの」を延長したという事ですね。さらに言うとこの「受ける時が決まっている定業」には「今世で受ける」「来世で受ける」「来来世以降に受ける」という3パターンがあります。また「定業」が決まる要因は、「煩悩による」「父母に対する行為による」「日常的な行いよる」という3つに「三宝に対する行為による」ものの全部で4つの行為によって「定業」が決まるわけです。この4つのなかで「定業」を根本的に変えることができるのは「三宝に対する行為」です。つまりは「正しい信心」ということになる。さてこれら「定業」を決定する4つの行為は「今世で人間として生きている間しか出来ない行為」です。仏法においてはこの人間界に生まれること自体が稀なこととされています(もちろん人間に生まれるのも定業の果報です)ましてや一眼の亀の喩にあるようにこの「定業」を変える大聖人仏法に出会い信じることは難しいとされています。

◆人身は得難く天上の絲筋の海底の針に貫けるよりも希に仏法は聞き難くして一眼の亀の浮木に遇うよりも難し(聖愚問答抄)

その大聖人仏法に出会い三世永遠にわたる「苦悩の定業」を「幸福の定業」へと変換できるのは今世の命が尽きるまでの間なわけです。

◆而して法華経にあわせ給いぬ一日もいきてをはせば功徳つもるべし、あらをしの命やをしの命や

と言われているように一日生きて題目を上げればそれでけ功徳が積める。その一日積んだ功徳が三千大千世界の財より大きいという事です。命が三千大千世界の財より尊くなるのはその尊い命を惜しまず大聖人仏法を信じるからです。てかくと信心活動ばかりして一生を過ごせというのか?と反論する人もいるけれど、根本はそうではなくて「色心二法」で大御本尊を信じるということです。朝晩の勤行唱題。できなければ題目三唱だけでもいい。ただし心から大御本尊を信じること。それこそが自信の「命」を大切にするといことに他ならない。学会活動などという仏法上無意味な活動したり、学会版カラコピ掛け軸に「偽門の題目」上げたり、大聖人仏法を悪用するような創価に加担し、剰え「三宝一体の体」であるご本仏。すなわち大御本尊を捨て誹謗する行為は「三宝」に対する最悪の行為です。この創価民の行為こそ無間地獄への「苦悩の定業」を日々積んでいる行為であり、自身の尊い命に対する自傷行為以外のなにものでないのです。この御文はただ長く生きていれば「幸福」であると言われているわけではない。長生きしても必ずしも幸福でないことは先日聖教に掲載された現在の大作センセの呆けた姿をみれば分かるでしょう?ボケて弟子にはいいように利用され大好きな創価の組織や会員とも接触できずにいるあの姿。今世でアレですからこれから大作センセの受ける定業の果報を想像すると自業自得とはいえ同情を禁じ得ませんね。

ともあれ学会員さん、折角三千大千世界で一番の財である「人界の命」を授かったのだから創価謗法は止めにしてもっと大切に使いませんか?


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