創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

学会の幹部なんて「無責任職」だよ。

聖教新聞の今週の言葉に、

学会の役職は

尊き広布の責任職なり。

法華経に名をたて

身をまかせ給うべし」

励ましと拡大の新風を!

と書いてあった。そういえば創価の秋の人事は今頃だったなぁ。役職が上の方から段々決まっていって今頃から新しい体制になるんだよな。俺は学会の人事は部長くらいまでは毎回断っていたなぁ。最後の方は断っても無駄だし断るだけ時間の無駄ってわかったかから断らなかったけど俺はこんな感じだけど人の上に立つのも人の下に立つのも嫌いだし、「指導」とかいう傲慢ちきな言葉も嫌いだから一会員で自由にしてたかったんだよね。それにさ、こっちから幹部になりたいと希望しているわけじゃないのに面接受けるとかもおかしい話だよね。面接といえば心に残っているは部長面接の時に面接官(分県幹部)がSもGもやっていなった俺に何故やってないのか?と聞いてきたのでやってないとダメなんですか?と聞き返したところ、SやGで薫陶受けないと信心の確信が持てない。みたいなことを言われたことかな。で、俺は「信心の確信があるからここで面接受けているのだけど。それでダメなら別に部長とかならなくていいです」といって帰りかけたことかな(笑)結局そのまま部長になったけど、あまりにその時にムカついたのでとうとう最後までSもGもやらなかったね。これだけは最後まで「やらない」と一言でオシマイにしていた。

さて、学会の役職は「責任職」って昔から言われたよね。責任職とかいいながら大作センセは【名誉】会長(笑)センセだけ思い切り名誉職なんですけど。というツッコミはさて置き一般の役職は「責任」職らしい。普通は責任には権限も伴わないとおかしいんだけどね。だって権限がないと責任の範囲がわからないでしょ?でもまぁ権限はないけど「責任職」なのである。で一体何に対して責任を持つのかみんなよくわからないんだよね。学会の組織運営に対してなのか?大作を師匠と思わせる責任なのか?なんだかよくわからない。だから幹部がその役職の責務を果たしているかも分からない。もっとも責務を果たしていなくても別に何か困ることもないんだけどね。まぁ俺が活動家幹部時代は「責任」とは自分の組織の部員さんを大御本尊・大聖人につなげること。当時は「つなげる」というよりも部員さんの大御本尊・大聖人への思いを「断ち切らない」ことを念頭に活動してかなぁ。そりゃ広宣部もやってから正宗や日顕上人への罵詈雑言はいってました(ゴメンナサイ)だけど、大御本尊と唯授一人血脈は否定したことはなかったなぁ。会合もほぼ毎回御書講義で大作センセのスピーチや人間革命を教材にしたことはなかった。勿論大作センセの言葉を教材に学ぶことは否定しなかったが「御書が分からなければ池田先生の言ってることはわからないよ」とかなんとかいって御書ばかりやってた。ぶっちゃけると大作スピートとかよりも御書の方が心に刺さるからなんだけどね(笑)今週の言葉にかかれている「法華経に名をたて 身をまかせる」というのはそういうことなんじゃないかと思う。「大御本尊を否定したり」「唯授一人血脈を否定したり」する創価幹部が後を絶たないけど、ヤツラの論拠は脆弱で我見と詭弁に塗れていてとてもじゃないが大聖人仏法と呼べる代物じゃないんだよな。ヤツラは本当に学会の役職が責任職であることを自覚しているのかね?我見と詭弁で会員を騙して「無責任」極まりない。で最後は「自己責任」なんていうなら役職なんて受けんじゃないよって思うよ。一般の学会員さんに知ってほしいのは、創価の幹部は「信心も責任感もない」ってこと。だから自分で学んで欲しいんだよな。そうすればすぐに創価の信仰は大聖人仏法ではないことがわかるはずだから。


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