原島崇は池田大作の側近中の側近だったことは誰もが認めるところだが、そんな原島も池田と袂を分かち、長年にわたり仏敵にされた一人である。この原島と山崎正友は池田創価の仏敵の象徴・双璧といえるだろう。原島家と池田の因縁は深い。原島崇の父親である原島宏治こそが池田を第三代会長に仕立て上げた功労者だからだ。宏治に関する話はまた別の機会に譲るが、その宏治の子供の崇を重用したのは池田なりの思惑があったのだろう。原島は、1964年(昭和39年)3月に早稲田大学商学部卒業しすぐに聖教新聞社入社。その後は、1966年(昭和41年)「特別書籍」局長、1968年(昭和43年)12月教学部長、1969年(昭和44年)総務、1970年(昭和45年)宗教法人創価学会責任役員・理論室長、1972年(昭和47年)創価学会教学部師範、1974年(昭和49年)聖教新聞論説主幹。1977年(昭和52年)聖教新聞編集兼発行人・聖教新聞社主幹と順調に創価学会組織の中で出世していくが、1980年(昭和55年)8月2日に創価学会から除名された。その契機となったのが、52年路線だ。原島が池田に反旗を翻した理由はひと言でいえば、池田の人間性に対する不信感といえる。池田の教義逸脱から始まった52年路線の最中に原島は、創価学会側の教学部長として宗門や現正信会の僧侶などと関係改善の交渉にあたっていたが、その過程のなかで池田の仮面の下の醜悪な顔に気付いてしまった模様を原島は次の様に語っている。(以下太字は原島発言)「問題は、池田大作にとって、いずれも本心からの反省など毛頭なく、たとえば『6・30』も『11・7』も、不満の中の大不満である」と怒りをあらわにしていましたし、会長および総講頭の辞任も一時撤退迂回作戦、やがての巻き返し復讐のためのその場しのぎのポーズにすぎなかったのです。私はこの間、池田大作に加担しつつも、いやというほどの彼の本性を見てきました。」、「7月22日、先師日達上人が御遷化になりました。池田大作は、それを「罰だ」とはっきり私に語ったのです。」そんな池田の姿をみていた原島は良心の呵責に耐え切れずに、直接池田に進言をし、その時は池田は反省の色をみせたものの、「翌日から、「原島には近づくな。道で会ってもとりあうな」という指令が出され、私は、いわば監禁状態に置かれたのです。職場も聖教新聞社には行けず、新宿文化会館の一室に監視つきで仕事に従事するように命じられたのです。私の家(※聖教新聞社社宅)も、私が何か学会批判の文章を書いているのではないかと、母に命じて家捜しされ、家にいることもできなくなりました。」こうした池田のやり方に耐えかねて原島は創価批判に舵を切った。その際に原島が創価本部からコピーして持ち出した内部文書には例の『水滸会記録』などもあり、池田創価の醜悪な本性が白日の下に晒されたることになる。こうして仏敵となった原島は御多分に漏れず、創価学会及び学会員から執拗に攻撃をされることになる。「学会の教学部長でありながら、金に目が眩んで、師や同志を裏切った。」「極悪ペテン師・山崎正友の手先に成り下がって資料を盗み出した」「糖尿性腎症で身動きもできないず紙オムツをつけていた」「酒に溺れて肝硬変になり、よだれを垂らし、手足の麻痺で会話もできず、食事も出来ない生き地獄の苦しみが続いていた。」「両耳が聞こえなくなり、パーキンソン病も患い、五感も内臓も破壊され無間地獄へと旅立った」など、昔の学会員なら一度は聞いたことがあるだろう。仏法の法門法義でなく、病気で苦しむ姿を嘲笑い、その死去したのちも悪口罵詈する軌道を逸した誹謗の数々。これが宗教の名を騙る創価学会(員)の姿である。創価から離れた後に行き場を失い正信会へと走った原島だったが、最後は日蓮正宗に帰依し、戒壇大御本尊にお目通りして懺悔し今世を終えることができたのは彼にとって一番の喜びだっただろう。
創価学会の退会方法(静かに創価を去るために) - 創価ダメだしブログ
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