◆大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも潮のみちひぬ事はありと も日は西より出づるとも法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず(祈祷抄)
今月の座談会御書は先月の開目抄の一節と同じよに有名な一節。
このご文を思い出しながら題目をあげてる人も多いでしょう。
そんなメジャーな御文ですね。
この御文の前には何故法華経の行者の祈りが叶うか?
といことが書いてある。
ようやくすると、諸仏・諸天から九界の一切衆生が
法華経の行者を守るので祈りが叶うということ。
その恩を返すと、仏に約束したから。
仏の約束故に諸仏・諸天は法華経の行者を
敵(苦悩)から守る。
だから祈りがかなわないことはない。
なるほど、道理だね。
さて、そこで今回の一節でポイントなるのが
【法華経の行者】とは一体どのような人なのか?ってところ。
【法華経の行者】の祈りは必ず叶うのだから
【法華経の行者】がなんたるかを知らなければ話にならない。
学会幹部・活動家がよく口にするのは
「祈るだけだはダメ。行者とは活動すること」
な~んて学会活動をしないと行者じゃない風に言うが
そんな事は関係ない。
【法華経の行者】と一口に言っても、
この【法華経の行者】には、総別の二義がある。
総じて言えば、大聖人の仏法を信仰している我々凡夫のことだが
毎回書くが、大御本尊のことである。
◆本尊とは法華経の行者の一身の当体なり(御義口伝巻下)
つまり【法華経の行者】の祈りとは
大御本尊対して祈る祈りのことを言う。
ここがまず一番大事。
後日改めて書くが、我々が大御本尊に祈る祈りとは
そっくりそのまま、大御本尊の祈りとなる。
つまり我々が祈っている祈りは、
まんま大聖人の祈りでもあるのだ。
だからこそ祈りが叶う。のだ。
この御文のあとに
◆行者は必ず不実なりとも智慧はをろかなりとも身は不浄なりとも戒徳は備へずとも南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給うべし
とあるのは我々がどうであれ、
大聖人が一緒に祈ってくれいるから必ず守護される。ということだ。
ここが一番のキモである。
とはいえ、我々もまた法華経の行者でなければ祈りは叶わない。
で、法華経の行者の定義とは何か?
色々御書には書いてあるが、祈祷抄に関連して言えば
◆法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば慥に後生は申すに及ばず今生も息災延命にして勝妙の大果報を得広宣流布大願をも成就す可きなり。一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば慥に後生は申すに及ばず今生も息災延命にして勝妙の大果報を得広宣流布大願をも成就す可きなり。(祈祷抄送状)
と書いてあることだと思う。
信心に退転なく。とは大御本尊に対する信を捨てないということ。
信心と具体的に言えば、「何を信じるか」ということであり
何をもって「本尊とするか」ということである。
つまりは一大秘法の大御本尊ということである。
大御本尊を信受しない学会員は信心に退転した姿である。
身に詐親無く。とは大御本尊に偽り親しまない。ということだ。
広宣流布などと言葉巧みに会員を誑かす幹部。
新聞勧誘や選挙の支援依頼の下心で友人・知人に近づく活動家
こういうのを詐親という。
一切法華経に其の身を任せて。とは
勤行・題目を実戦し日々の生活を送ること。
一時的に悪いことがあっても大御本尊を疑わず
いいことがあっても大御本尊を忘れずに題目を上げていく。
インチキ勤行・インチキ題目や
インチキ幹部のインチキ指導に身を任せてはいけない。
金言の如く修行。とは御書読み実践していくこと。
池田センセの指導を金言だと思い
センセの指導通りに実践していくのは如説修行ではない。
結論から言うと、創価の言うとおり活動するということは
【法華経の行者】でなくなる。ということに等しい。
◆法華経の行者の心もしらず題目計りを唱うるが諸宗の智者におどされて退心をおこす(曾谷入道殿御返事)
題目あげてりゃそれでいい。ってなもんだから
池田センセをはじめとする諸宗の智者に騙され退転するわけだ。
故に、祈りは絶対に叶わない。
祈祷抄冒頭に
◆仏説なればいづれも一往は祈となるべし
とあるから、一応は「祈り」だが
その「一応の祈り」はかなわぬ祈りなのである。
本当に叶えて欲しい祈りがあるなら
学会活動など今すぐやめて
大御本尊への信を取り戻し
正しい勤行・唱題を実戦することだ。
そうすれば【法華経の行者】の祈りとなる。
【法華経の行者】の祈りなれば
叶わない祈りはないのである。