創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

御講拝読御書研鑽(2022年11月・阿仏房尼御前御返事)

今度大願を立て後生を願はせ給へ少しも謗法不信のとが候はば無間大城疑いなかるべし、譬ば海上を船にのるに船おろそかにあらざれどもあか入りぬれば必ず船中の人人一時に死するなり、なはて堅固なれども蟻の穴あれば必ず終に湛へたる水のたまらざるが如し、謗法不信のあかをとり信心のなはてをかたむべきなり、浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし、重きあやまちならば信心をはげまして消滅さすべし

 

今月の御講御書は千日尼に宛てられた『阿仏房尼御前御返事』です。本抄は短いお手紙ですから全遍通しで読むと理解が深まると思います。千日尼の謗法に浅深があるのでようか?との質問に大聖人が謗法に浅深がありその対処法を御指南されているのが本抄の内容で、門内(信徒)に対する御指南になります。謗法の対する対処法は総じて言えば、門内では『謗法厳禁』であり門外に対しては『折伏正機』であると日亨上人は御指南されています。自身や門内における浅い謗法とは、例えば勤行をサボってしまったり御僧侶や同門者の愚痴を言ってしまったりなど知らないで犯してしまった謗法のことですが、このような軽い謗法は唱題を上げることにより自然と消えてしまうので、自分自身や同門者を責めずに許すのです。では、信徒における重大な謗法とは何でしょう。信徒で在る以上は御本尊を御不敬したり法主上人を誹謗したりはしませんから(池田創価のように信徒でありながら法主上人を誹謗する人間もいますがこのような人は事実上は信徒ではありません)、信徒に犯す重大な謗法とは、本抄に【涅槃経に云く若し善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駆遣し挙処せずんば当に知るべし、是の人は仏法中の怨なり、若し能く駆遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり】【いふといはざるとの重罪免れ難し、云つて罪のまぬがるべきを見ながら聞きながら置いていましめざる事眼耳の二徳忽に破れて大無慈悲なり】と書かれているように戒壇御本尊や日蓮大聖人、法主上人等の御僧侶を誹謗する三宝破壊の者を見ながら知りながらそれを放置することが法華講員にとっては重大な謗法となります。このような重大な謗法を犯している同門者をみたら、文理や体験などを語り信心を励ましてその罪を消滅させることが大切だと思います。逆に自分がそのような指摘を受けたら素直に自身の信心を振り返ることが大切です。このように、本抄は主に門内信徒への御指南ですが門外の人々に対する折伏の方法にも通じます。門外の人達は謗法を犯してしまっているのが前提ですが、その人たちにの謗法にも浅深が存在します。法華経譬諭品に「若し人信ぜずして斯の経を毀謗せば即ち一切世間の仏種を断ぜん、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と説かれていますが、「単純に信じない人」と「信じない上に毀謗する人」と大きく分けて二通りに区別されます。前者は「浅」で、後者は「深」の謗法です。ですから折伏に当たっては前者であれば、徒に相手を否定・論破するのではなく大聖人の仏法を語っていくことが折伏になります。後者であれば門内の者に対するような信心を励ますのではなく、【呵責し駆遣し挙処】し徹底的に破折するのが折伏となるのです。どちらも同じ折伏ですが相手の謗法の浅深によってアプローチは違ってきます。これは為人悉檀によるものです。前述しましたが、大聖人の仏法を誹謗するような人間を放置するのは自分自身の重謗法にになっていまうということを心に留めなくてはなりません。当然、相手を悪口罵詈するのではなく、大聖人仏法の法門・法義に基づいて呵責し駆遣し挙処することが正しい折伏になります。ともあれまずは自身の『謗法厳戒』が第一義です。その根本は日々の勤行・唱題です。日寛上人の

「常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法になるなり。口に折伏を言わずんば、口が謗法に同ずるなり。手に珠数を持ちて本尊に向かわずんば、身が謗法に同ずるなり」(如説修行抄筆記)

との御指南を胸に今月も唱題行に励んできたいと思います。

 

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