何なる世の乱れにも各各をば法華経十羅刹助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり
6月の座談御書は「呵責謗法滅罪抄」。創価男子部の会合では・・・
「さぁいよいよマル参の戦いだ。一人でも多くのFを取って池田先生に勝利のご報告をしよう!」
「部長・・そうは言ってもボク友達ないのでFが取れないんです」
「なに~・いいか湿った木から火を起こす。乾いた砂漠の砂から水を出すほど祈るんだ。必ずFのひとつやふたつは取れるはずだ」
「ハイ!部長。分かりました。砂漠で水を必ず見つけてみせます!」
って感じ?バカですかぁ~?(笑)
この御文は日蓮大聖人様が常に我々のことを祈ってくださっているというとてもありがたい御文なのです。
【何なる世】というのは横に全宇宙。縦に永遠。ということで、我々がどこにいようとそしていつの時代に生きようと
ご本仏日蓮大聖人が我らの成仏を強盛に祈ってくれているのです。
【各各】というのは総じて言えばすべての衆生であるが、別して言えば大聖人の弟子のこと。
「四条金吾殿御返事」に曰く、
◆日蓮は少より今生のいのりなし只仏にならんとをもふ計りなり、されども殿の御事をばひまなく法華経釈迦仏日天に申すなり其の故は法華経の命を継ぐ人なればと思うなり
と言われているように、「法華経の命を継ぐ人」を特に祈って下さっています。このご本仏の祈りはご本仏の心法でありその当体が大御本尊なのです。大御本尊に備わる「仏力」とはこの御文にある仏菩薩諸天をも動かす大聖人の祈りの一念ことなのです。
創価や大作センセはこの御文を引いて、「師匠は弟子のことを祈ってくれる。ありがたい。」などどいうけど、
しかしながら、大聖人の「仏力」がいくら偉大であっても信力・行力がなければそれを享受することはできない。
ご本仏は本来一切衆生の味方であり、一切衆生はご本仏の味方でもあります。
◆「今此三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり而も今此処は諸の患難多し唯我れ一人のみ能く救護を為す」と説いて、此の日本国の一切衆生のためには釈迦仏は主なり師なり親なり
しかし、
◆おのおのは随分の日蓮がかたうどなり、しかるをなづきをくだきていのるにいままでしるしのなきはこの中に心のひるがへる人の有るとをぼへ候ぞ、をもいあわぬ人をいのるは水の上に火をたき空にいゑをつくるなり(辧殿御消息)
との御文にあるように、本来味方であり大聖人の祈り(仏力)を受けられる立場でありながら「心を翻す」衆生はその祈りが叶わないのです。
ましてや、創価の如き大御本尊(ご本仏)を捨て去った者が、どんなに祈ろうとその祈りが叶うことはない。
だいがくどのゑもんのたいうどのの事どもは申すままにて候あいだいのり叶いたるやうにみえて候、はきりどのの事は法門の御信用あるやうに候へども此の訴訟は申すままには御用いなかりしかばいかんがと存じて候いしほどにさりとてはと申して候いしゆへにや候けんすこししるし候か、これにをもうほどなかりしゆへに又をもうほどなし、だんなと師とをもひあわぬいのりは水の上に火をたくがごとし、又だんなと師とをもひあひて候へども大法を小法をもつてをかしてとしひさしき人人の御いのりは叶い候はぬ上、我が身もだんなもほろび候なり。(四条金吾殿御返事)
むしろこの御文にあるように、祈りが叶わない上に己自身もその眷属もまた「滅びて」しまうのです。
重要なのは自分人が「ご本仏に祈ってもらえる」ような「信心」をしているかどうか。
つまり純真に大本尊を信じているかどうか。ソコですね。その上で自分の身に降りかかる苦難・逆境に立ち向かう祈りをした時に、
まさに「奇跡」と思われる功徳が現れるわけです。それが「四力冥合」した本当の信心の力です。
いいですか?自分がただ強盛に祈っても結果は出ない。「唱題」に力があるのはない。大本尊に力があるのです。
そこを勘違いして題目を死ぬ気であげれば功徳が出るなんて思ってはいけません。
大御本尊を捨てた創価カラコピ掛け軸に死ぬ気で祈れば死ぬだけです。
さて、正宗では大御本尊のお目通りの際には時の猊下が一緒に勤行・唱題してくれます。大御本尊の内証を相伝している猊下が祈ってくれるとういうのは今回の御文の通り大聖人が祈ってくれているのと同じです。また菩提寺のご住職も御講等では信徒とともに勤行・唱題し我ら信徒のことを大御本尊に祈ってくれています。これは非常にありがたいことです。創価で大作センセが一緒に勤行・唱題してくれますか?口では「会員の皆様のことをいつも祈っています」なんて言っているが、大作センセが唱題会とか参加したことなんてある?個人的にも大作センセが10時間唱題をしたとか、今日は何時から何時までは題目あげてます。なんて聞いたことある?ないだろ。なにせ勤行0分センセだからな。
仮に大作センセが学会員一人ひとりのことを祈っていたとしても、
大作センセの祈りは「仏力」でも「法力」でもなく、単なる信力・行力なので「ありがたい」かもしれないが
別に大作センセの祈りが我々に何かをもたらすことはないのである。
対する正宗の法主上人は内証に大御本尊の法体が流れているので大聖人の名代として信徒のことを祈っているし、
末寺のご住職は法主上人の弟子として大御本尊に信徒を取り次いでくれている。
大作センセがいかに本仏を気取ろうと、大聖人にはなれない。
仏力・法力を所持しているのは大聖人だけなのである。
ここが分からないのが創価民であり創価民をそうさせているのが創価教学だ。
正宗では自分と一緒に猊下や住職が実際に勤行・唱題するし大御本尊(ご本仏)につながっている。
対する大作センセや創価上級幹部は「祈っている」というだけだし、大本尊を捨てている。
この違いなんだよな。一体どっちが本当に信徒を大切に思っているか、大聖人のお言葉の通りの行動をしているか一目瞭然なんだけどな。
ともあれ、我々は法華経の命を継ぐ者となり、大聖人のかたうどとして生涯を通し、ご本仏にいつの世にも祈ってもらえる信心をしてきましょう。創価でモヤモヤしている会員さんも一日も早く大聖人に祈っていただける境涯になるといいですね。その為には一刻も早く創価の活動をやめ創価を退会し大御本尊の元に戻ることです。
(創価カラコピ掛け軸に題目あげても無駄だからやめたほうがいいですよ)