創価ダメだしブログ

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弥四郎国重と熱原三烈士を考える。

弥四郎国重と言えば本門戒壇の大御本尊の願主であることは皆さん御存じだと思います。戒壇大御本尊の脇書きに【本門戒壇の願主弥四郎国重、法華講衆等敬白】と記されています。古来からこの弥四郎国重については様々な見解があります。私も創価時代に弥四郎国重とは誰のことなのか?と疑問に思っていたところ戸田会長の「大聖人己心の弥四郎国重である」という指導を読んで合点がいきました。また日蓮正宗の公式な見解も「本門戒壇の大本尊は唯一究竟の大目的の下に、大聖人境界中の弥四郎国重」(日蓮正宗要義)「御本尊の願主は熱原の人々を代表とする法華講衆を、大聖人の境界中の己心の弥四郎国重」(日蓮大聖人正伝)となっています。さてそこから「大聖人の己心の弥四郎国重とは?」と考えるようになり私なりにひとつの結論に至りました。(以下は私の個人的見解です)私の思う弥四郎国重とは久遠元初の信徒なのです。久遠元初に仏宝と僧宝がいたのなら当然そこに衆生(信徒)がいないと不自然です。仏も僧も衆生を教化するために出現する訳ですから当然そこには三宝を受持する衆生がいるはずなんですね。私はその久遠元初の信徒こそが「大聖人の己心の弥四郎国重」ではないかと思っています。そして、鎌倉時代に久遠元初の仏宝は大聖人として久遠元初の僧宝は日興上人として出現したのだから当然久遠元初の信徒も同じ時代に出現するはずでそれこそが熱原三烈士であると考えています。熱原三烈士が日興上人によって折伏・教導されたのも、その殉教が戒壇大御本尊建立の機縁になったのも全ては久遠元初の信徒としての振る舞いであったと思います。仏宝・僧宝の化導を助け、後代の信徒の明鏡となる姿を示す。法華経地涌の菩薩同様に大聖人・日興上人の久遠からの信徒でなければできることではないと感じるわけです。もちろんこれは私の勝手な考えですから他人に話す時は私の我見であることを伝えてから話しますがそれほど大きく逸脱していないかなと自賛もしています(笑)そしてそんな弥四郎国重を思う時、自分もまた久遠元初の信者の一分としてその列に加わりたいと願い、戒壇大御本尊をの分身を授与された法華講衆として弥四郎国重に連ならなければならないとの決意を新たにします。戒壇御本尊の分身である御形木本尊を下付いただける資格があるのは法華講衆だけと大聖人が決めました。創価学会員や顕正会員には戒壇大御本尊の書写本尊をコピーであっても拝む資格はないのです。そもそも彼らに与えられた本尊ではないのですから。

 

 

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