弘安元年から御入滅までも身延後期は蓮大聖人の一期の化導の正宗分になります。一般的には、身延入山後よりもそれ以前の四箇の法難、特に龍ノ口から佐渡流罪の時期が大聖人の御生涯の中心のように思えますが、化導の面から見れば龍ノ口を始めとする御法難はまだ序分にすぎず、弘安元年から戒壇大御本尊御建立までが大聖人の御生涯の正宗分なのです。そして戒壇大御本尊御建立以降現在に至るまでが流通分になります。御本尊を中心として大聖人の御生涯を俯瞰することが「化導の面」です。そして弘安元年以降が正宗分に当たるのは御本尊の相貌の変化で知ることができます。詳しくはまた別記事にしたい思いますが、御本尊の相貌及び仏滅度後の讃文が弘安元年よりそれ以前の御本尊と変ってきます。これは弘安二年の戒壇大御本尊御建立と言う大聖人の出世の本懐を遂げる準備が整ってきた証左です。そして出世の本懐を遂げる契機となったのが『熱原法難』です。それまでの法難は大聖人自身が受けられた法難でしたが、『熱原法難』は大聖人信徒に身に降りかかった難です。ここに大聖人が出世の本懐を遂げる時が訪れたのです。かくして弘安二年十月十二日、一閻浮提総与であり総体の御本尊である戒壇大御本尊が御建立されました。
■関連記事▶富士門流の法難①(熱原法難) - 創価ダメだしブログ
さて戒壇大御本尊御建立後も弟子・信徒の育成を続けられた大聖人は弘安5年9月に、嫡々・唯授一人の血脈相承の証として『日蓮一期弘法付嘱書』を日興上人に授けられます。そして同年9月8日にかねてから健康を損ねられていた大聖人に対する弟子達の勧めで、湯治のため常陸へ向かうことにされ身延山を下山され、9月18日に武蔵国・池上宗仲邸に到着され、同月25日から弟子檀越に対して『立正安国論』の講義をされました。このことから「大聖人のご生涯は立正安国論にはじまって立正安国論に終わる」といわれています。続いて10月8日には本弟子6人を選定し、さらに同月13日に御入滅を前に『身延山付嘱書』をもって、日興上人を身延山久遠寺の別当と定められました。そして10月13日の辰の刻(午前8時頃)、御年61歳をもって安祥と御入滅されました。このとき大地が震動し、初冬にもかかわらず桜の花が一斉に咲いたと伝えられています。大聖人の寂滅の相はその御法魂を本門戒壇大御本尊として留められ永遠に衆生を救済されるという不滅の滅の妙相を示されたものです。葬儀は血脈付法の大導師日興上人が指揮を執られ、その後日興上人は初七日忌の法要を修し、同月21日早朝、ご遺骨を捧持して池上を発ち、同月25日に身延へ帰山されました。その後、日興上人は身延を離山しますが、いま歴史を振り返れば大聖人が身延山を下り池上邸で御入滅されたことにも深い意味を感じます。以上、簡単ですが日蓮大聖人の御生涯を学んできましたが、大聖人の御生涯を学ぶにあたっては常に【化導の次第】を頭に入れて学ぶとより深く大聖人の御生涯を理解することが出来ますし、年代ごとに書かれた御書に理解も深まります。また戒壇大御本尊権建立から大聖人の御生涯を逆に遡って観る事も大切です。歴史上の出来事ではなく化導を中心に大聖人の御生涯を学ぶのが「教学」で、そこに大聖人の御生涯を学ぶ意義があります。そして大切なことは、大聖人は誕生の時から御本仏として内証に本因妙の法体を所持されていたという事です。決して大聖人がその御生涯のどこかの時点で悟りを開いて御本仏になったのではありません。そのように大聖人の御生涯を見ていく事が教学を学ぶということであり宗教的に歴史を学ぶことなのです。
※退会相談・質問・疑問・対論など、常時コメント受付ています。
▼一日「イチオシ」お願いします
