信心をしていてもなかなか願いが叶わず、苦しい時ってありますよね。こんな時には「自分の信心が間違えているんじゃないか?」「自分は大聖人仏法を下げているんじゃないか?」なんて色々なことを考えちゃいますよね。実は日蓮大聖人も同じことを思っていたのです。『開目抄』で、「世間の疑いといい、自心の疑いと申し、いかでか天扶け給わざるらん。諸天等の守護神は仏前の御誓言あり。法華経の行者には、さるになりとも法華経の行者とごうして、早々に仏前の御誓言をとげんとこそおぼすべきに、その義なきは我が身法華経の行者にあらざるか。この疑いはこの書の肝心、一期の大事なれば、処々にこれをかく上、疑いを強くして答えをかまうべし。」と、大聖人は龍ノ口の頸の座に連行され佐渡流罪になった事について御自身について、「自分は法華経の経者ではないのではないか?」「世間の人々からも嗤われているのではないか?」と考えます。そんな心の葛藤に対する答えを同抄では、「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、(中略)、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」と述べてます。超簡単に訳すと、「もう、どうとでもしやがれ!どっちにしたって法華経を捨てたら地獄なんだから信心続けるわ。地獄と比べりゃ今の苦しみなんてどうって事ねぇだろ」と大聖人は開き直ったとみせて(笑)その後で、「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ」と大聖人を疑う心を持たずに純真な信心を続ければ必ず幸福(成仏)になれる。だから今苦しく厳しい状況でも、功徳がないとか願いが叶わないと嘆いていけないと言われます。こうして大聖人は自ら示同凡夫の姿を示して弟子檀那に苦境の時の信心の在り方を御教示されているのです。しかし悲しいかな荒凡夫の私達は、信心をしていても苦難からなかなか抜け出せない時に、「自分の信心が間違えているんじゃないか?」「御本尊様は助けてくれないじゃないか?」と弱気になり、ややもすれば御本尊を疑い信心を捨ててしまう人もいます。大聖人はそれもお見通しで、「我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし」と私達弟子檀那にクギを刺されています。本当に苦しい時って万策尽きて八方塞がりで何も出来ない時なんですよね。だからこそ信心以外に無いんですよ。苦しいけど御本尊に祈り願う以外に何もできることがない。「必ず仏界に至る」という大聖人を信じるしかないんですね。『祈禱抄』で大聖人は「行者は必ず不実なりとも、智慧はおろかなりとも、身は不浄なりとも、戒徳は備えずとも、南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給うべし。」と言われています。自分の信心が間違っていようとなんだろうと御本尊を信じ唱題に励めば必ず守られるというのが大聖人の御妙判です。「間違えた信心」というのは基本時にはひとつしかありません。それは「本尊を間違える」ということです。他宗も創価も顕正会も「本尊」を間違えているから、どんなに純粋な唱題をしようと「間違った信心」ですから仏界(幸福)に至ることはなく、むしろ地獄の業因になります。私達法華講員は少なくても本尊は正しい。本尊が正しいのだから謗法以外にだけ注意すれば、今がどんなに苦しくても祈っていけば必ず道は開ける。それが大聖人の教えです。そんな大聖人の御指南を信じて私も唱題を重ねている今日この頃です。
★創価・顕正からの退会・正宗への移籍・創価破折相談はX(Twitter)のDM・メール(メアドはプロフィールに公開中)、でお気軽に。※正宗への勧誘目的ではありません。
▼一日「イチ押し」お願いします

