『実相寺御書』に、「夫れ、法華経の妙の一字に二義有り。一は相待妙、麤を破して妙を顕す。二は絶待妙、麤を開して妙を顕す」と書かれています。この相待・絶待は「二妙」といわれ、天台大師が『法華玄義』で、「二に妙を明かさば、一には通釈、二に別釈なり。通に又二と為す。一には相待、二には絶待なり」と【妙】について判釈した内容のことです。相待妙とは、爾前経と法華経とを比較(相対)し、爾前を麁法・方便と破し、法華経を妙法・真実と判釈することで、絶待妙とは、比較・相対するのではなく、相待を絶した絶待の妙法の上から麁法をそのまま妙法と開会することをいいます。つまり絶待妙の妙法に全ての教えが含まれていて、全ての教えは絶対妙の妙法に帰一するということです。私たちの信仰する日蓮大聖人の仏法は、更に文上の法華経と文底の妙を相対し文底下種の妙法を絶待妙と立てます。その絶待妙の体が日蓮大聖人の色心二法の本門戒壇大御本尊です。自余の御本尊は本門戒壇大本尊に帰一しなければ絶待妙とはなり得ません。そのことは戸田城聖氏が「御本尊様は一つしかありませんが、無量義経に分身散体の法というのがあります。この分身散体の法というのは、創価学会を除いて日本広しといえども絶対に説いておりません。分身散体の分け方により種々分けられますが、すべて一閻浮提の御本尊に帰一するのです。」と過去に明確に指導しています。したがって現在の創価本尊は麁法・方便の本尊であり、それを根本にしている創価学会員は相待妙の人生を歩んでいるので。常に誰かと勝負し、戦い、勝利を目的とし、数を誇り、功徳を欲する。まさに餓鬼・畜生・修羅の人生を歩んでいるのが創価学会員です。対して絶待妙の戒壇大御本尊を受持している正宗信徒は絶待妙の人生を歩んいけるのです。大聖人は「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、をを心は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなり」(八風抄)とご指南されていますが、これが絶待妙の生き方であり、戸田城聖氏のいう絶対的幸福境涯だと私は思っています。いい時も、苦しく辛い時も、傲慢になったり絶望したりしない。他人や過去と今の自分を比べてたりせずに、嬉しい時は「嬉しい」、苦しい時は「苦しい」、悲しい時は「悲しい」と、御本尊に申し上げながら、他人を頼りにせず、媚びず、利用せず、そして他人に流されずに自立した人生を送ることが絶待妙の人生であり、それを可能にするための信仰が日蓮正宗の信仰だと思っています。そもそも人間は、誰しも唯一無二の不思議な存在で、絶待妙の存在なのです。大聖人は、「人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ、(中略)蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし。」(崇峻天皇御書)と仰せです。また、「貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し」(一生成仏抄)とも御教示されています。心の財を積めば他人の事は気にならないのです。ともあれ、「相待妙は迹、絶待妙は本なり」(百六箇抄)。との御教示にように、絶待妙の生き方こそ人間の本来の生き方です。そこから外れた時に人は不幸を感じるのでしょう。そうならないために私達には絶待妙の御本尊があるのですから、朝晩の勤行をしっかりして日々生きていこうと思ってます。
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