先日は皆さんの好きな御書の一節を教えてくれてありがとうございました。
御書はやはりいいですよね。勤行0分先生の言葉とは重さが違う。胸に響きます。
今日は、美有さんの好きな開目抄の、
◆我並びに我が弟子諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども疑いををこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事をまことの時はわするるなるべし
について少し書いてみることにします。
この一節は忘れもしない私が初信の頃、創価からこの御文が書かれた印刷物が配布され
経机の上に置いて勤行の度に読んでいた御文。
創価風に解読すると、「真の時こそ師との誓いを果たしてこそ・・・」
みたいな創価お得意の師弟不二に無理くり持ってい行くのでしょうが、
そんな創価民は、勤行0分先生大作センセと何の約束したんですか?そこが酷く疑問です。
更に疑問なのは、大作センセと何かの約束をすると「仏界に至る」ことができるのか?ってことです。
大作センセに弟子を仏界に至らしめる「力」があるというのは「大作信仰」でしょ。
大作センセにそんな力があるわけないのに、なんの為にどんな約束をするのかサッパリ意味不です。
この御文に書かれている「我」とは言うまでもなく日蓮大聖人です。
なので、我々は日蓮大聖人と約束するのが普通でしょ。
◆実に無始曠劫の契約常与師倶生の理ならば日蓮今度成仏せんに貴辺豈相離れて悪趣に堕在したもう可きや( 最蓮房御返事)
とのご聖訓にあるように、我々は不退の信心をする事を約束し、
それに対してご本仏は我々を「必ず成仏」させることを約束してくれるわけです。
この約束を交わすのが御授戒です。
破門後に入会した創価会員さんは、そもそも御受戒を受けていないのでご本仏と約束を交わしていない。
だからご本仏は貴方達を必ずしも成仏させる理由は無いので、
破門後の入会の会員さんにはこの御文は全く関係のない(というか今の創価に御書は全く無関係だけど)
破門前の学会員さん。それが「拙き者」ですね。奪って言えば「謗法者」です。
破門前の学会員は全員もれなくお寺で御授戒を受けている。
御受戒の時に、ご仏前で貴方達は何を約束したか覚えていますか?
御受戒の時に大聖人の弟子はこう約束するのです。
◎「今身より仏身に至るまで爾前迹門の邪法邪師の邪義を捨てて、法華本門の正法正師の正義を持ち奉るや否や」
◎「今身より仏身に至るまで爾前迹門の謗法を捨てて、法華本門の本尊と戒壇と題目を持ち奉るや否や」
◎「今身より仏身に至るまで爾前迹門の不妄語戒を捨てて、法華本門の不妄語戒を持ち奉るや否や」
〇「持ち奉るべし」
と。思い出しましたか?これが大聖人様と我々がした「約束せし事」です。
ところが今の破門前の創価民は、朝夕に御本尊に題目を唱えているにも関わらず、
大作センセとダーハラ怪鳥達執行部、それを支持する患部・活動家達に騙され
大御本尊に疑い起こし、ついには創価民は皆大御本尊を捨てたのです。
いいですか?今の創価は「戒壇大御本尊も本門の本尊」と定義しているに受持しない。と言っているんですよ?
「本門の本尊を持ち奉らない」と堂々と言っているのです。
正しく、「拙き者は約束したことを真の時に忘れる」のですね。
先に挙げた 最蓮房御返事には、大御本尊(大聖人)と伴に生まれるのは、
無始曠劫の契約(約束)があったからです。にもかかわらず荒凡夫の大作センセとのよくわからない約束を優先して
ご本仏との無始曠劫の契約を破棄した創価民さんはもう大聖人様と一緒でいることはできないのです。
大聖人と共にいることのできない状態。それを無間地獄というのです。
本当にそれでいいの?大作センセや同じ創価の学会員さんと別れたくないという気持ちは分からないでもないが、
この御文の続きには、
◆妻子を不便とをもうゆへ現身にわかれん事をなげくらん、多生曠劫にしたしみし妻子には心とはなれしか仏道のためにはなれしか、いつも同じわかれなるべし、我法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて返てみちびけかし。
と書かれています。ここを読み直して欲しいかな。
ともあれ、破門後入会の学会員さんは、御受戒を受けてまずは日蓮大聖人と約束を交わしましょう。
また、破門前の学会員さんは勧誡を受けて「拙き者」の汚名を返上してください。
一日も早く「自然(必ず)に仏界にいたる」正しい大聖人仏法を実践できるように願っています。