『立正安国論』の奏呈から9年後の文永五年正月、大聖人の予言された他国侵逼の難が蒙古の来牒によりいよいよ現実として現れてきました。大聖人は、『安国論御勘由来』など幕府への諌言をしますが何の返答もないことから10月11日に、北条時宗・宿屋左衛門光則(宿屋入道)・平左衛門尉頼綱・北条弥源太・建長寺道隆・極楽寺良観・大仏殿別当・寿福寺・浄光明寺・多宝寺・長楽寺に対して、有名な通称『十一通御書』を認めますが幕府はこれも黙殺します。更に3年後、大聖人は極楽寺良寛との祈雨対決に勝利します。良寛は敗北したら大聖人の弟子なるという約束を破り、逆に大聖人に対し憎悪の炎を燃やしデマを用いた裏工作を謀り、ついに大聖人は平左衛門尉頼綱の指示により捉えられてしまいます。「復讐」「デマ」「裏工作」によって日顕上人や日蓮正宗を貶めた池田大作創価学会は極楽寺良寛・平左衛門尉と全く同じです。表面上は佐渡流罪を理由に大聖人を捕縛しまたが、内実は密かに龍ノ口での斬首と決めてた平左衛門尉は大聖人を捕縛した文永8年(1271年)9月12日の夜半に龍の口の刑場に連行します。しかしまさに頸を切られようとする直前に不思議にも江の島の方角から月のような光物が現れ役人・兵士は恐れ慄き大聖人の頸を切ることが出来ませんでした。この光物の正体について後の学者たちは様々な推測をしますが、これこそ凡智では測れない不思議と言う以外にありません。そして『開目抄』で「日蓮といいし者は、去年9月12日子丑時に頸はねられぬ。これは魂魄、佐土国にいたりて」と仰せの如く日蓮大聖人はそれまでの外用上行の迹を払って御本仏としての本地を顕します。これを【発迹顕本】といいます。さて、『創価学会教学要綱』では、上記の『開目抄』御文を釈して、大聖人は龍ノ口の法難以降は上行菩薩としての立場を自覚したと解釈していますが、これは大きな間違いです。前回の記事で書きましたが大聖人の外用のお立場は、『立正安国論』奏呈以降は既に上行菩薩であることは、松葉ケ谷・伊豆流罪・小松原の逢難の事実に明らかなのです。従って【発迹顕本】の【迹】とは上行の姿のことなのです。龍ノ口に連行される以前にすでに大聖人は上行菩薩のお立場なのですから、【顕本】とは上行菩薩の迹を払い御本仏としての本地を顕す以外に他に解釈のしようがないことは、ここまでの大聖人の御生涯の歩みを見れば自明であり、『創価学会教学要綱』の解釈がいかにインチキか分かると思います。さて龍ノ口の難を逃れた大聖人は同年11月1日より佐渡流罪の日々が始まります。最初は墓所の中にある塚原三昧堂という堂の中に雪が降り積もるような「あばら堂」で、常に念仏者から命を狙われ食料にも事欠くような状態でした。これを秘かに助けたのが、佐渡で信徒となった阿仏房夫妻でした。そして半年後に一の谷入道の家へ移されました。この佐渡流罪中に大聖人は塚原三昧堂で『開目抄』、一の谷で『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』という、重要な御書二篇を書かれました。また、「十界互具の大曼荼羅」を始めて顕されたのもこの佐渡の地で、初めて顕された御本尊は通称「佐渡始顕本尊」と呼ばれています。さらにこの佐渡の地においては阿仏房夫妻以外に多くの人々が大聖人の信徒となりました。そして文永十一年2月14日付で幕府より赦免状が出され、大聖人は2年5ケ月の佐渡の生活を終え、3月13日真浦(まうら)を出発して新潟の柏崎に到着、26日に鎌倉へ戻られました。大聖人の一期の化導を見る時に、この龍ノ口の法難から佐渡流罪の期間はまさしく【正宗分】にあたります。これ以前が【序文】、身延入山後は【流通分】に当たります。
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