創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

創価教学じゃない御書講義(2020年11月座談会御書・異体同心事)

日本国の人人は多人なれども体同異心なれば諸事成ぜん事かたし、日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて一定法華経ひろまりなんと覚へ候、悪は多けれども一善にかつ事なし、譬へば多くの火あつまれども一水にはきゑぬ、此の一門も又かくのごとし

今月の座談会御書は選挙戦になるとお馴染みの「異体同心事」です。今回の御文も色々とポイントがありますが、今回は基本の「異体同心」について書きます。「異体同心」というと創価民は「師弟不二」あたりを持ってきて「池田先生と異体同心の戦い」なんておっぱじめます。また組織だと例えば支部だったら「支部長と異体同心の団結で」とか言い出します。本当にアフォだと思います。大聖人がいつ池田大作鯛焼き支部長と異体同心とかいいましたか?そんな事いってませんよ。大作と異体同心になると、【大事を成じて一定法華経ひろまりなん】という話になるわけないでしょう。ここでいう【大事を成じる】というのは一生成仏・即身成仏のことで池田大作は全く無関係なわけです。支部長なんてもっと無関係です。【同心】とはどういうことかと言えば、【心】は我々の【信心】のことです。では大事が成じるためにはどの有ような信心をすればいいかというと、

◆よき師とよき檀那とよき法と此の三寄り合いて祈を成就し国土の大難をも払ふべき者なり(法華初心成仏抄)

との御文の通りです。「よき師」とは大作ではなくて人本尊たる日蓮大聖人であり、「よき法」とは法本尊たる南無妙法蓮華経です。しかしてその実体は人法一箇の法体である戒壇大御本尊なのです。即ち同体の「同」とは一大秘法の戒壇大御本尊です。この戒壇大御本尊を唯一無二と信じる故に「同心」というのであり、また戒壇大御本尊を信じ題目を上げれば我らの「心法」が御本仏の「心法」と冥合します。この事の十界互具の姿もまた「同心」ということなのです。大御本尊を捨てた創価創価民のなかには「異体同心」はありません。彼らが「同体異心」です。「同体異心」とは今回の御文の次上に、

◆一人の心なれども二つの心あれば其の心たがいて成ずる事なし

と言われているように自身の心の中に二心がある人を「同体異心」の人といいます。唯一無二の戒壇大御本尊と自余の御本尊を「全く同じ」と思う事や、大聖人を御本仏といいながら「池田先生と呼吸を合わせる」なんてこいている創価民は皆「同体異心」の者です。と書くと創価民は「法華講だって法主と異体同心とかいってるじゃねぇか」とか反論してきますが、法主上人は大聖人の御内証を所持しているだから法主上人と異体同心ということは大御本尊(大聖人)と異体同心になるのと同じなのです。そもそも創価は「異体同心の団結をする」とか言いますが、「異体同心」とは「する」ものではなく「なる」ものなのです。一人ひとりが大御本尊を信じて唱題をすれば、いちいち「異体同心団結をする」なんて無理やりしなくても自然と「異体同心になる」わけです。その上で別して言えば法華講の異体同心とは、

◇一結講中異体同心に未来までも相離れ申すまじく候、中に於て一人地獄に落入り候はば講中寄合いて救取るべし、一人成仏せば講中を手引きして霊山へ引導すべし

との日因上人のご指南の通りに和合していく事です。創価のように組織や幹部を批判したり歯向かったりする会員さんをすぐに処分するような組織は「異体同心」の組織ではありません。見せかけだけの団結、上辺だけの仲の良さなんて大聖人仏法においては「同体異心」でしかないのです。そんな学会活動をやっていても自身の願いも叶わないし、ましてや広宣流布など夢のまた夢でしかありません。池田大作に同心するのを即座に中止し戒壇大御本尊に「同心」することが大事なんですよ。それが本当の「異体同心の信心」なのですから。


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