創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

ひごちゃんさん。こんな感じいいのでは?

ひごちゃんさんが例の鯛焼き君と議論をしているみたい。

私はいまは全く鯛焼き君のブログは読んでいない。

大聖人仏法の根幹である「本門の本尊」について本当に何一つ説明できないような人の我見を読んでも時間の無駄。

根本が分かっていないのに枝葉の話をされても全く興味に値しない。

が、ひごちゃんさんからコメントをもらったのでひごちゃんさんへの返答を書いていたのだが

少し長くなってコメント欄だと読みづらいので記事として書く。

まぁ鯛焼き君の主張なんて記事に上げるレベルではないのだけど(笑い)

以下少し読みづらいだろうけど、コメントの返信として書いたものをコピペした。

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こんにちは。

> 管理人様、この道理のわからん奴に

> 何と言えばよいのでしょうね。

> 草木成仏には開眼供養が必要だと説いているのに、まだ御本尊様に開眼供養は要らないと押し通す。

所詮、己義・邪見の人間ですから何を言っても無駄なんですけどね。まぁ淡々と破折すればいいと思いますよ。

> 私(創価学会)は、「仏像」に開眼供養する意義は認めても、「御本尊」に開眼供養する意義などない、という立場です。

> つまり「仏像」=「御本尊」ではないのです。

> 依文は何度も引いておりますが、富士一跡門徒存知の事

> 「日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像・木像の仏・菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり」

これは釈迦等の仏像・絵像とご本尊を対比しているだけで御本尊が木絵二像ではないと言っているのではないことはこの前文で明らかです。仮にこれを依文としたとしても「御自筆の本尊」と明記されているので書写の本尊は含まれない。つまり「書写の本尊」は「開眼不要」という文証になりえない。逆に観心本尊抄には

◆此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか

と書かれている。末法に初めて出現した「仏像」とは御本尊を指すことは明白で、大聖人はご本尊を「仏像」と言われているのだから当然御本尊も木絵二像であると大聖人は考えられていたという解釈になる。

> 話を戻しますが、ゆえに「草木成仏」「開眼供養」を否定しないことと、

> 御本尊様に「開眼供養」など必要ありません。

> と記事タイトルにしたことは、まったく矛盾しませんし、むしろ当然のことだと考えております。

まずは「草木成仏」と「開眼」を別物だと思っているフシがあるので。「莫~迦」と笑っておく。

で御本尊に開眼不要ならばなぜ大聖人は「草木成仏」の法理を御書にかいたのか?大聖人滅後に書写本尊以外の本尊は「開眼の有無」以前に不要なのだから「開眼しても木絵二像は本尊にならない」とだけ書けば済むのにわざわざ開眼について言及されされたのか?まさか大聖人滅後のおいて御本尊以外の仏像・絵像も開眼すれば本尊になる。というような事は言わなだろう。ならばこのようなご指南(開眼についての方法)をされたのは、ご自身の滅後の書写本尊を念頭にいれていると考える方が道理に合う。また今の創価に「開眼供養」をする場面など実際にはない。それは開眼を否定しているのと同じことではないか。

> >大聖人様がその草木を成仏させるには、開眼供養が必要と説かれたのなら、開眼供養は必要と理解するのが普通ではありませんか

> ここが誤った解釈です。

誤っているのは鯛焼き君の解釈のほうである(笑)

> そもそも「開眼」って何なのでしょう?

日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ(経王殿御返事)

こういう事を「開眼」というのである、創価カラコピにいつ誰が大聖人の魂を移したのか?には無回答か(笑)

> 木絵二像開眼之事

> 「仏に三十二相有り、皆色法なり。最下の千輻輪より終り無見頂相に至るまでの三十一相は、可見有対色なれば書きつべし作りつべし。梵音声の一相は、不可見無対色なれば書くべからず作るべからず。仏滅後は木画の二像あり。是れ三十一相にして梵音声かけたり。故に仏に非ず。又心法かけたり。」とある通りで、

> 仏は三十二相八十種好の色法を備えているが、木絵二像は三十一相までしかない。ゆえに欠けている残り「梵音声」を加えることで三十二相となるが、この「梵音声」を加えることを「開眼」と仰せなのです。

> もちろん「法華経」=「南無妙法蓮華経」と読むのは言うまでもありません。

> このように、不完全な「仏像」に対して「開眼供養」することは理解しますが、翻って「御本尊」に当てはめるのは無理があります。

コイツはちゃんと「木絵二像開眼之事」を読んでいるのか?(嗤)要するに「御本尊は三十二相」が揃っているから開眼の必要がないという主張なんだろうが、

> では、あなたが「御本尊には開眼供養が必要」と言うからには、御本尊に何かが不足しているという認識なのでしょうが、それはいったい何なのですか? 御書に即してお答えください。

この痴れ者が引用した同じ木絵二像開眼之事には

◆但心なければ三十二相を具すれども必ず仏にあらず人天も三十二相あるがゆへに

と明確に書いてあるわ(笑)三十二相揃っていても仏にはならないとな。「心」がなければ仏=本尊にはならいのだよ。

そして開眼とはさっき私が引用した通り「ご本仏の心法」を移すことに他ならない。相貌さえ正しければ三十二相が揃っているから開眼はいらない。なんてのは全くもって教義に疎い無知・無教学のヤツの言い草だ。習い損ねの学者とはまさしく創価鯛焼き君のことだ。

さて、これでも本尊に開眼不要と言うならば「誰が読んでも分かるような文証を出せ」といっておこう。出せなきゃ鯛焼き君の負けだよ(笑)

> >現に草木成仏口決の最後には

> 「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり、

> 天台妙楽伝教内にはかがみさせ給へどもひろめ給はず、一色一香とののしり惑耳驚心とささやき給いて妙法蓮華と云うべきを円頓止観とかへさせ給いき、されば草木成仏は死人の成仏なり、此等の法門は知る人すくなきなり、所詮妙法蓮華をしらざる故に迷うところの法門なり、敢て忘失する事なかれ、恐恐謹言。」

> >大曼陀羅が草木成仏の究極と説かれておりますよ。

> この御文では「塔婆」を立てて開眼供養する理屈については分かりますが、なぜ「御本尊」を開眼供養するのか?については明確ではありません。

> 「塔婆」も「御本尊」も一緒の扱いで論じている根拠が不明です。

本当に御書を読んでないんだな。草木成仏口決というのはその名の通り「草木成仏」の法義を書かれた御書だ。草木成仏とは非情の成仏の事で、その一例として塔婆について書いてあるだけで「塔婆」の話がメインじゃないことは全文読めばわかることだ。ご都合主義の切文教学?いや御書を悪用する創価らしい言い訳だ。大御本尊も含め全ての御本尊は「非情」でないのか?ならば「御本尊は非情でない」という文証だしてみろよ。

> >最後に、日興上人の御文を出されていましたが、日蓮大聖人様の法門は全て日興上人に受け継がれた訳ですから、

> >日蓮大聖人の本意を説かれるのは当たり前の事です。

> ここは誤解をされているようです。

> 日興上人は大聖人の本意に従っているからこそ、「大聖人の法門では絵像・木像の仏は本尊ではない」と断言されているのです。

ほほ~では、日興上人は先ほど引用した「末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか」のこの末法初出現の仏像とは「御本尊のことでない」と断言したというこになるがそれでいいのだな。では日興上人は「末法初出現の仏像」とは何の事だといっているのだね?この「仏像」とは釈迦像か?阿弥陀か?薬師か?いったい何をさているのか日興上人の文証を提示して説明してみなよ。

そもそもがさっきも言ったが「富士一跡門徒存知の事」は開眼についてかかれた書ではなく、あくまでも五老僧と日興上人の立場を対比した書なのだよ。そんな御書を引用して「大聖人の法門では絵像・木像の仏は本尊ではない」と断言されている?ってホンモノの莫迦か?しかもオマエが引用した部分のどこで【断言】してるんだ?そうやって嘘ばかりかくんじゃないよ。どこにも「御本尊は木絵二像ではない」などと断言されているところはないではないか(大笑)この御文の全体はこうである。

◆五人一同に云く、本尊に於ては釈迦如来を崇め奉る可しとて既に立てたり、随つて弟子檀那等の中にも造立供養の御書之れ在りと云云、而る間盛に堂舎を造り或は一躰を安置し或は普賢文殊を脇士とす、仍つて聖人御筆の本尊に於ては彼の仏像の後面に懸け奉り又は堂舎の廊に之を捨て置く。日興が云く、聖人御立の法門に於ては全く絵像木像の仏菩薩を以て本尊と為さず、唯御書の意に任せて妙法蓮華経の五字を以て本尊と為す可しと即ち御自筆の本尊是なり。

ほれ、これを通解してみろ。どこに「木絵二像に本尊は含まれない」と断言している箇所がある?この部分はあくまでも「曼荼羅正意」をご指南されているのであって、「御自筆の本尊」との対比の為にこのような表現をしているのに過ぎない事は明白だ。

> にもかかわらず、あなたは「木絵二像」を「本尊」とみなしたうえで「開眼供養が必要」としていますが、これが誤りだということ。

にもかからずオマエは日興上人が「木絵二像を本尊とみなしていない」などという妄想を根本に御本尊に開眼不要などという痴論を言っている。それが誤りであり謗法なのである。

> 「塔婆」の「草木成仏」の原理を用いて、「御本尊」を「草木成仏」させるというのは大聖人の本意ではないのです。

オマエ達創価は塔婆供養を否定してるではないか(笑)「塔婆の草木成仏の原理」ってなんだよ(笑)草木成仏は「塔婆」限定なのか?ならば塔婆を否定しているオマエ達は「草木成仏」も否定していることなるだろ。頭大丈夫か?(大笑)

無理して知ったかぶりするなよ(笑)知らないなら「私は草木成仏がいまいちわかりません」と正直に書けばいいんだよ(笑)

草木成仏が分からないヤツが「開眼」について講釈たれるとは本当に厚顔無恥だな。

まぁ~鯛焼き君にはこんな感じでいいと思いますよ(笑)

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それにしても本当に創価の連中ってこの程度の教学力でよく「日蓮仏法」なんていえるもんだね(哀)

御書を適当に引用すれば「反論」したとでも思ってるのだろうか?(惨)

今回の鯛焼き君は「文証」になるような「御書」を引用していない。

「自分が勝手に解釈」している文が文証になると思っているのだから、鯛焼き君だけにオメデタイ。

木絵二像に御本尊は含まれない。というなら鯛焼き君の解説なしで誰が読んでも「そのように書いてある」文証をだしなさいな。

それが出せなければ鯛焼き君の負けですね。


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