創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

「信じている」で全てをごまかすな。

奥さんがちょくちょく無断外出や無断外泊をしているある夫婦がいる。お金も何に使っているのか分からないらしい。旦那さんに「奥さんが勝手なことして気にならないのか?」と尋ねると旦那さんは「僕は妻のことを信じているから何も気にならない」と答た。そんな旦那さんの事を素晴らしいと思いますか?それを素晴らしいと思うのであればアナタは創価信仰をやることができる。私はこの旦那を素晴らしいとは全く思わない。これって「奥さんを信じている」訳ではなく「奥さんに興味がなく無関心」なだけだろう。創価の活動家の信心とはまさにこの旦那さんと同じ。「御本尊を信いているのか?」と聞けば創価活動家はほぼ全員が「信じている」という。でも実際は違う。彼らは御本尊を信じているのではなく御本尊に対して興味がなく無関心なだけなのだ。「信じている」と言えばなんとなく聞えもいいし素晴らしいように錯覚するが彼らの信じているは無関心の裏返しでしかない。御本尊に関心があれば自分達の拝んでいる御本尊に対して「もっと知りたい」と思うはずだ。ところが創価活動民は本当に御本尊を知らない。本ブログでも多くの創価民に本尊義を問うたが誰一人としてまともに答えれた創価民はいない。また本尊義らしいことを言っている創価民もいるがツッコミどころが満載でおそらく少し突っ込めばたちまち言葉に詰まるであろう自論ばかりだ。件の旦那さんがもしも妻に関心を持っていたなら何故彼は妻を放置するのか?それは本当の事を知って万一妻が浮気していたら今の生活が壊れてしまうと怯えているから妻の自由奔放な生活を放置しているのである。だたそれは無関心なのと同じことだ。いまの創価活動家はこの旦那さんだ。「信じている」の一言で自分を安心させなんとなく分かったつもりなって本気で本尊を知ろうとしない。これならば信じるよりも疑う方が数段御本尊のことが理解出るだろう。無関心は猜疑心よりも自分にとっても相手にとってもヒドイ態度だと思う。猜疑心であろうと信仰心であろうと本尊や教義を「知りたい」と関心をもつことが大切であり無関心は信仰心から最も遠い心だと思う。その信仰心が欠如しているのが創価活動家なのだから創価活動家は信仰者ではない。「これから勤行は方便自我偈の一座にします」「はいわかりました」「弘安二年の戒壇大御本尊は受持の対象にしません」「了解で~す」信仰者であれば普通は仏道修行(勤行)やましてや本尊が変わってしまったら何故なのか自分で徹底的に考えるだろう。しかしそれらに無関心な似非信仰者の創価民は何も考えず言われた通りにするだけである。言われた通りにするだけだから法華講員などに指摘や破折をされてもまとまな返答をすることができない。仏法の化法・化義には全て意味があるんだよ。念珠ひとつ合掌ひとつ、樒・線香・ろうそく・水にだって意味がある。それなのに彼らはそれらに対し全く興味を示さず知ろうともしない。これを無関心と言わずに何だというのか?ただ彼らは創価本部に言われた活動をしているだけでそれを信仰だと思い込んでいる。自分で考えているなど単なるいいわけであり詭弁にすぎない。大聖人の仏法に全く興味がないのが創価活動家という人種だ。彼らが読むのは御書ではなく人間革命。彼らが逢いたいのは大聖人(大御本尊)ではなく池田センセ。彼らが興味をもつのは大聖人仏法ではなく公明党候補の当落。だから今の活動家は大聖人の仏法のことなど何も知らない。そのくせ大聖人直結だの御書根本だのご本尊根本だのと宣う。バカも休み休み言ってくれないと聞いてるコッチが疲れる。創価活動家諸君よ。「信じている」などという言葉で自分と他人を欺かないでもっと関心を持ってちゃんと大聖人の仏法と向き合いなさいよ。それが信仰者というものだよ。


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