我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて
我が己心中の仏性南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり
譬えば篭の中の鳥なけば空とぶ鳥のよばれて集まる が如し、
空とぶ鳥の集まれば篭の中の鳥も出でんとするが如し
口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必 ず顕れ給ふ
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今月の座談会御書は、「法華初心成仏抄」
現在の創価教学のデタラメさを象徴する部分ですね。
本文に入る前に、題号の部分を少し書きます。
「法華初心」というのは、このまま読むと
「法華信心の初心者」ということになるでしょうか。
「初めて法華の信心をする人」が「成仏」をする方途をご教授してくださっている御書です。
この「初めて信心をする人」というのは、「信心を初めて日が浅い」というような意味でなく。
過去世に下種を受けなかった衆生。という事だと思ってます。
つまり「法華初心成仏抄」とは、末法凡夫の我々の成仏の方途を明かされた御書です。
その結論部分が今回の座談会御書の御文になります。
さて、今回のポイントは
「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて」の部分です。
創価教学では、この部分をもって自分自身の中に本尊がある。
自分自身が妙法の当体である。なんて言い出す。
それこそ創価の凡夫本仏論。自分本尊論。の邪義なんですね。
大聖人仏法には、「総別」「理事」「能所」「文上文底」等あるわけです。
仏教学とか学術だとと言ってる方々に
大聖人仏法の法門法義を言っても理解できない。といつも言っているのは
彼等には御書を法門・法義の上から読めないから。
何故そう読めないかと言えば、一言で言うならば「不相伝」だからです。
◆此の経は相伝に有らざれば知り難し(一代聖教大意)
上記の一文を読んで、「自分の中に本尊がある」などという身延ごときの解釈をする。
妙法の当体についてついては「当体義抄」に詳しいのでそちらを学んでほしいが
この妙法の当体については「両重の総別」の義がある。
日寛上人は、取要抄文段で
◇今この義に於て両重の総別あり。一には総じてこれを論ずれば一切衆生なり。別してこれをいわば蓮祖の末弟なり。二には総じてこれをいわば蓮祖の末弟、別してこれを論ずれば但これ蓮祖大聖人のみ、真実究竟の本地無作の三身なり。
とご指南されている。
一応総じては一切衆生妙法の当体だが、別しては大聖人の弟子旦那が妙法の当体である(第1の総別)
次に、総じていえば大聖人の弟子旦那は妙法の当体だが、別しては大聖人お一人が妙法の当体である(第2の総別)
この二つの総別をあわせて【両重(二重)の総別】という。
つまり、創価のいう「己心本尊」というのは
総じてのはなしであり「理」の上の話。
六即に配すれば、創価学会員は「理即」なわけ。
「理即」の凡夫である以上「事」の成仏はない。
◇若し六即に配せば、一切衆生無作三身とはこれ理即なり。蓮祖門弟無作三身とは中間の四位なり。蓮祖大聖無作三身とは即ちこれ究竟即なり(取要抄文段)
◆又是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輪廻生死のもといたらん(曾谷殿御返事)
その両重の総別を弁えたうえで上記の御文を解説すると
「我が己心の本尊」とは、凡夫である自分の己心でなく
ご本仏たる大聖人の己心の本尊。ということだ。
大聖人の己心の本尊を崇め奉り(信じる)
南無妙法蓮華経の唱題行をすることによってのみ
「法華初心」である末法凡夫の我らは成仏可能であるということが
今回の御文のポイントだね。
日寛上人の観心本尊抄文段には
◇我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり
とのご指南があるが、この指南と今回拝読の御文とは同じことを言われている。
そこで日寛上人が「この本尊」と言っているのは、同じく本尊抄文段に
◇本門戒壇の本尊は応にこれ総体の本尊なるべし。これ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり
◇弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の 本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり
とのご指南で明らかな通り、「弘安二年の本門戒壇大御本尊」なの。
大御本尊こそが、大聖人の己心の本尊であるということだね。
この御本尊に題目をあげるのが「本門題目」であり
「本門題目」とは言い換えれば「大御本尊を受持する」ということになる。
この「本門題目」によって、我が己心の妙法を顕し
また他の仏性も引き出すことができるということである。
それを「成仏」というわけだね。
大作センセは
▼私たちがひとたび、妙法蓮華経と唱えれば、その一切の仏性を呼び現す力が題目にはあるからです
などとフザケタ講義をしているが
「唱題」に力があるのでなく、「本門題目」に力があるのだよ。
そしてさっき書いてけど「本門題目」とは「大御本尊受持」の事。
大御本尊を受持しない創価幹部・活動家が
どれほど「南無妙法蓮華経」とうわ言のように叫んでも
「事」として仏性を顕現することはできない。
自身の仏性を顕現できないのだから他者のもまた然り。
一体、どこの誰が大御本尊を受持せずに成仏可能などいってのか。
大作センセだろ。そう言っているのは。
今回の「法華初心成仏抄」に、
◆宗宗各別に我が経こそすぐれたれ余経は劣れりと云いて我が宗吉と云う事は唯
是れ人師の言にて仏説にあらず
と書かれている。
創価の正義?それは「仏説」ですか?
先日の創価活動家のコメント読めば「仏説」かどうか一目瞭然だ。
むしろ、今回の御書(法華初心成仏抄)は次の御文を心に刻んで欲しい。
◆菩薩人師の言には依るべからず仏の御定を用いよ
大作センセのいうことも
創価幹部のいうことも
創価活動家のいうことも
すべて「人師」の言葉であり
「仏説」は皆無なのだ。
創価学会仏の「仏説」というなら話は分か・・・・
・・・らないな。
だって、創価学会仏だとそんな「仏」自体が
最初からイカサマだもんな。