創価ダメだしブログ

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創価教学じゃない御書講義(2019年2月の座談会御書・生死一大事血脈抄)

相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提生死即涅槃とは是なり、信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり

今月の座談御書は、創価活動家が大好きな生死一大事血脈抄の最後の部分だね。

「信心の血脈」だけ切文して「唯授一人血脈」を否定しまくるのが創価流。

「信心の血脈」だけあればなんでもOKらしいのだが、そもそも「信心の血脈」の有無の判定は誰がするのかね?

ダーハラ怪鳥にその権限があるのかね?それともあくまでも自己申告なのか?

そんなあやふやな指導をする方も聞く方もどうかしてるって思うんだけでどね~。

さて、「血脈」について書くと、「血脈」には「総別」の二つがあること知っておかないとダメだね。

「信心の血脈」というのは「総じての血脈」であり、「別しての血脈」とは「唯授一人血脈」ということ。

創価教学は、本当にこうした立てわけができない切文教学だからいつまでたってもダメなんだよ。

是には総別の二義あり総別の二義少しも相そむけば成仏思もよらず輪廻生死のもといたらん(曾谷殿御返事)

とのご聖訓にあるように、この立てわけが出来なければ「成仏」もできない。ということを知って欲しい。

今回のこの「生死一大血脈抄」の冒頭には、

夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり、其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈なり

生死一大事血脈とは南無妙法蓮華経でありその理由は釈迦多宝から上行菩薩が譲り受けた。と明確に書いてある。

もうこの一言が「生死一大事血脈」の結論だよ。どういうことかと言うと上行菩薩が譲り受けた南無妙法蓮華経とは何かといえば「法体」であって、この法体をどのように譲り受けたのか?というと御義口伝に

此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり

と仰せのように「面授口決」にて日蓮(上行)が釈迦多宝から譲り受けたわけで、

(二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いと日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなりは同意故に)

決して「信心の血脈」で譲り受けたわけではないだろう。

それ故に、「南無妙法蓮華経の法体」は日蓮大聖人以外に譲り受けた人はいない。

つまり「法体」は大聖人ただ一人に相承されたのである。

この「法体の相承」を指して「唯授一人血脈」といい、日興上人以来の御歴代への「別しての血脈」(別付)の事である。

そして総じての「信心の血脈」(総付)とは、「法門の相承」のことである。

日応上人の、『弁惑観心抄』には

◇「唯授一人嫡々血脈相承にも別付総付の二箇あり、その別付とはすなわち法体相承にして総付は法門相承なり、而して法体別付を受け玉ひたる師を真の唯授一人正嫡血脈附法の大導師と云うべし。また法門総付は宗祖開山の弟子旦那たりし者一人として之を受けざるはなし。蓋し法門総付を受けたる者は、遂には所信の法体に迷惑して己義を捏造し、宗祖開山の正義に違背す。」 

とのご指南がある。「法門」については弟子旦那皆がこれを受けることはできるが「法体」については唯受一人へ附属すると。

そして、創価のように「信心の血脈」(総付)だけを重視する者は法体に迷い己義をねつ造すると言われている。

つい最近でも某創価支部長が、己義・邪見の三大秘法義や本尊観を書いていたが、

まさしく日応上人の指摘の通りの謗法ぶりだろう。

謗法者の思考回路と行きつく先は昔も今の変わらない所が凄い。

先にも書いたが本抄の冒頭で「生死一大事血脈」とは「南無妙法蓮華経」の法体であり、

その「法体」は「唯受一人相承」をもって伝えられることを示しているのであるから、

今回の御文で述べられるところの「信心の血脈」とは大前提として、「法体の血脈」への信の上に立脚したものである。

本抄中には再度、

◆只南無妙法蓮華経釈迦多宝上行菩薩血脈相承と修行し給へ

と述べられているが、この御文は「法体」(南無妙法蓮華経)である大御本尊と大御本尊から流れる「法体の血脈」即ち「唯授一人血脈」(釈迦多宝上行菩薩血脈相承)を信じて題目をあげる(修行する)という意味である。それが正しき日興門流の「信心の血脈」なのである。

故に日有上人は化義抄で、

◇信と云い血脈と云い法水と云う事は同じ事なり、信が動ぜざれば其の筋目違うべからざるなり、違わずんば血脈法水は違うべからず、夫れとは世間には親の心を違えず、出世には師匠の心中を違えざるが血脈法水の直しきなり高祖已来の信心を違えざる時は我等が色心・妙法蓮華経の色心なり、此の信心が違う時は我等が色心凡夫なり

とご指南されている。「高祖以来の信心」とは、大御本尊への信心と大聖人から日興上人へ唯授一人血脈への信心であることは疑いのない所である。また大御本尊と唯授一人血脈の体は同じなのである。故にどちらひとつでも否定をすれば「高祖以来の信心」の筋目に違えるわけだ。日応上人のいう所の「宗祖開山の正義に違背す」 とはこの筋目を違えることをいう。

創価に至っては「そのどちらも否定している」のであるから、「信心の血脈」どころか「宗祖開山の正義に違背」しているのである。

今回の本文中に書かれている「強盛の大信力を致す」その「対象」は一体何なのか?何に対して「大信力を致す」のか?

法華経を持つとも」の法華経とは一体何なのか?

そのどちらも「法体」であり具体的には一大秘法の大御本尊である。というのが日興門流なのである。

「法体の血脈」への信心をさして「信心の血脈」というのである。

「生死一大事の血脈」の体である大御本尊を捨て、それ以外に生死一大事血脈を求める莫迦創価幹部・バリカツなのである。

もっとも、創価のカラコピ掛け軸のことを大聖人は「法華経」という表現はしていないので、

信心の血脈なんてあってもなくても、カラコピ掛け軸など無益ではあるが(笑)

「信心の血脈」とは一体「何に対して信心を持つことなのか?」

今月はそんなことを思索しながらこの御書を拝してもらいたいと思う。


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