29日の聖教新聞の4面に「ナットクTALK」なる記事があった。
この「ナットクTALK」なる記事は若く初信の男子部向けに書かれているようだ。
で、今回は早くも「選挙」関係のことが書かれていたのだが、
こんな与太話で「ナットク」するのか?「ナットク」というより「セットク」
いや、これは初信の学会員を騙しているだけの「イカサマ」TALKとしかいいようがない。
「公明党」の支援活動を「大聖人の仏法」といって会員を欺くという使い古されている悪どいTALKだ。
なんでも、この記事によると(以下太字は聖教新聞から引用)
池田先生は「立正とは生命尊厳の哲理であり、人間革命の方途を示した仏法の人間主義の思想を人々の胸中に打ち立てることである。そのための実践が広宣流布である。そしてこの広宣流布は安国という、社会の繁栄と平和をもって完結するのである」と述べられている。僕たちが政治に関わるのは、この立正安国の精神にのっとり。安穏な社会を築いていくという仏法者としての社会的責務があるからといえるよ。
とうことらしいが、まず池田先生の「述べている」ことが何を言っているのかわからない。
というよりも勝手に池田先生がそう述べてるだけなのだがそれがあまりにも抽象的で漠然としすぎ。
生命尊厳だの人間革命だのそれっぽい言葉を並べていれば、
聞いている方もなんとなく正しいと思うだろうみたいな
頭の悪い人間が利口ぶっているときのセリフである。
だから普通に聞けば大作センセの指導と選挙は全く結びつかない。
この大作センセの話を聞いて「選挙が立正安国だ」って思える人間は、
これまた頭の悪い人間が利口ぶって分かったふりしているように見える。
そもそも大聖人の言う所の「立正」とは「破邪」に対する言葉である。
そしてこの立正とは具体的に言えば「三大秘法」のことであり、
突き詰めれば一大秘法の戒壇大御本尊のことである(説明は省略)
つまり、一大秘法たる戒壇大御本尊の第一義悉檀をもって「破邪」することが大聖人仏法における「立正」であり、
それによって国土を「安国」せしめることが「立正安国」の精神だ。
公明党の支援がこの立正安国の精神に「則り」とか言っているが、
創価が言っている「その立正安国の精神」は「大作センセの我見の立正安国の精神」だ。
そんなものに則るのは大聖人仏法ではない。だたのジジイの譫言で酔狂とでも言ってもいいだろう。
そしてこれまた創価活動家が選挙における唯一の頼みの綱の依文である立正安国論の、
◆汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か
だがこの御文のどこに「選挙」のことが書いてあるのかこれまた、
思考回路がショートしている人間しかわからない。同じく立正安国論には、
◆早く天下の静謐を思わ ば須く国中の謗法を断つべし
◆若し先ず国土を安んじて現当を祈らんと欲せば速に情慮を回らし・対治を加えよ
◆謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば国中安穏にして天下泰平ならん。
と書かれている。つまり「先ず四表の静謐を祷らん者か」とは
謗法破折・謗法対治のことを指していることは明白なのである。
「正道の侶を重んぜば」とは大御本尊に信を取る。といことである。
そして、「立正安国論」は国主諌暁の書であるから主権在民の現在に当てはめれば
自分自身と人々の謗法を退治し正法に導く事。
つまり折伏こそが唯一の「立正安国」の手立てなのである。
大聖人の立正安国の精神とは公明党を支援することでは断じてないのである。
そもそも大御本尊を捨てた創価に「立正」の精神がないのだから、
そんな創価が支持している公明党に「安国」にすることなど不可能だ。
公明党が与党になってからはどちらかと言えば「暗黒」ではないかと思うぞ。
しかも最近では公明党支援に異を唱えれば創価の組織から「処分」される始末である。
これのどこが「人間主義の思想」なのか、臍が茶を沸かすとはこのことだ。
創価の真面目な青年たちよ創価の「イカサマ」説法に騙されてはいけない。
選挙活動が信心だなどという莫迦な考えをもってはいけない。
投票権は自分の大切な「権利」である。それを創価に騙されて無駄に行使しなてならない。
どうしても、公明党に投票したいのならまだしも「大聖人の教え」などという思い違いをしないで欲しい。
そして、自分の友人・知人の大切な権利を気軽に創価の為に使わせるように真似は決してしてはならない。
ようするに、「公明党に投票したけば自分だけにしろ。他人の権利まで奪うことは許されない」ということである。
せめて、他人の投票権を侵害するような創価の選挙活動をしないことが君達の社会的責務だろう。
それをした瞬間に君たちは被害者から加害者へと変わってしまうのだからね。
それにしても、この登場人物である、創価3世38歳の新井区男子部長。
このままだと、我見と邪義で会員をだまくらかすような支部長とかになりそうで将来が心配である。(笑)