寂光の都ならずは何くも皆苦なるべし本覚の栖を離れて何事か楽みなるべき、
願くは「現世安穏後生善処」の妙法を持つのみこそ只今生の名聞後世の弄引なるべけれ
須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき、
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今月の座談会御書は「持妙法華問答抄」の
一番最後の結論部分の御文ですね。
いくつかポイントがあるのだけれど、
今回は「現世安穏後生善処」を中心に書きますね。
法華経・薬草喩品の中の言葉で
「現世安穏にして後に善処に生じ」と読みます。
現世安穏というのは、信心していれば苦悩はない。ということではなくて、
苦悩があったとしてもこの信心で
必ず乗り越えられる故に「安穏」であるという事です。
その理由は、全ての仏菩薩が法華経の行者を守護するからです。
これがご本仏(大御本尊)の仏力・法力の正体です。
◆然る間釈迦多宝等の十方無量の仏上行地涌等の菩薩も普賢文殊等の迹化の大士も舎利弗等の諸大声聞も大梵天王日月等の明主諸天も八部王も十羅刹女等も日本国中の大小の諸神も総じて此の法華経を強く信じまいらせて余念なく一筋に信仰する者をば影の身にそふが如く守らせ給ひ候なり、相構て相構て心を翻へさず一筋に信じ給ふならば現世安穏後生善処なるべし(上野殿御消息)
ここで大切なのは「心を翻さないで一筋に信じる」という事です。
昔は、大御本尊を唯一無二と言っていた創価は
いまではものの見事に心を翻し、
大御本尊を捨てるという手のひら返しをしたのですから
当然そのような人を仏菩薩が守護する道理はないわけです。
で、大御本尊を一筋に信じた人は「現世安穏」なわけですが
その因によって、「後生善処」という果報を受けるわけです。
後生善処とは、「在在諸仏土常与師倶生」の事です
◆過去の宿縁追い来つて今度日蓮が弟子と成り給うか釈迦多宝こそ御存知候らめ、
「在在諸仏土常与師倶生」よも虚事候はじ(生死一大事血脈抄)
簡単に言えば、何度生まれ変わっても
師匠(大聖人様)の元(共に)生まれる。という意味です。
常にご本仏の元に生まれるわけですから
常に現世安穏である。ということになります。
これが三世永遠の幸福の境涯であり成仏ということです。
この御書の本文中には
◆只須く汝仏にならんと思はば慢のはたほこをたをし忿りの杖をすてて偏に一乗に帰すべし、名聞名利は今生のかざり我慢偏執は後生のほだしなり、嗚呼恥づべし恥づべし恐るべし恐るべし。
と書かれています。
「名聞名利~後生のほだしなり」の部分は
「妙法を持つのみこそ只今生の名聞後世の弄引なるべけれ」と対比されています。
また
「偏に一乗に帰すべし」と
「須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみ」は
同じ事を言われています。
前記の上野殿御消息の「心を翻へさず一筋に信じ給ふ」
これも同じことで、
要するに、一大秘法たる戒壇大御本尊を
「唯一無二」のご本仏である。と信じて題目を唱える。という事です。
大御本尊も他の本尊も創価のコピー本尊も全て同じ。というのは
と言っているのと何ら変わりがないわけです。
こっちの「本門の本尊」は受持するけど
あっちの「本門の本尊」は受持しない。
(そもそも本門の本尊とは一大秘法の大御本尊です)
そのような信心ではどんなに題目をあげても
何の祈りも願いも叶わないのです。
◆一人の心なれども二つの心あれば其の心たがいて成ずる事なし(異体同心事)
「現世安穏後生善処」こそ、この御文の冒頭の
「寂光の都」であり「本覚の栖」です。
題号の「持妙法華」の意味とは
「持」とは「受持」であり、「妙法華」とは大御本尊という事です。
大御本尊を受持することが「持妙法華」です。
今の創価幹部・罵詈活諸氏は
「離妙法華」であり、「捨妙法華」ですから
いかに創価が楽しかろうと、
結局最後は「皆苦」であり真実の楽しみではありません。
「嗚呼恥づべし恥づべし恐るべし恐るべし」ですね。
◆法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし現世安穏後生善処とは是なり、ただ世間の留難来るともとりあへ給うべからず、賢人聖人も此の事はのがれず、ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経ととなへ給へ、苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ(四条金吾殿御返事)
苦しい時は苦しいと
楽しい時は楽しいと
包み隠さず大御本尊へ自行化他の題目をあげる。
これこそ「持妙法華」の実践に他なりません。
信心ある創価のみなさん
本気で悩みのある創価のみなさん
はやく「持妙法華」の信心を実践し
「寂光の都」「本覚の栖」に戻ってきてくださいな。
そして、今生人界の思い出をたくさん作り
「堕地獄」でなく、「後生善処」になりましょう!