本尊義の質問に答えられずに、このブログから遁走していった
「極悪と戦うなんちゃら」ブログの管理人の創価脳のランさん。
略して極悪創価悩乱さんが
ご自分のブログで先月何を思ったか
「観心本尊抄」の講義を突然始めた。
「へ~観心本尊抄なんて理解できるんだぁ~」って思って
その記事は読んでいた。
連載ぽく第3回まで書いたが、その続きは
飽きちゃたのかどうか知らないが
すげ~中途半端というか
本論の部分の講義がないままどうやら終了したみたい。
まぁ、回を増すごとに、どんどん酷い内容になっていたので
打ち切りは正解なんだけどね。
観心本尊抄講義の添削をしてみるね。
(以下▼が創価脳ランさんの講義)
まず初回の冒頭に
▼これは記事にしてよいものか相当迷ったが
との記述がある。
うん。よせばよかったのに(笑)とツッコミを入れた。
でまずは題号の説明がある。
「時・応・機・法」の四義の説明は日寛上人も文段をそのまま引用なので問題なし。
だけど
▼"おすがり信仰""がひろまっていた。それに真っ向から意義を唱えたのが第26世日寛上人であった。
こんなことを言うところが
日寛上人の書を読んでないのがバレバレで
その程度で「日寛上人」を語ってんじゃね~よ。って思うね。
日寛上人がやったのは、「戒壇大御本尊」の正義の宣揚ですよ。
「観心本尊抄文段」を全部読めば一目瞭然。
四義について述べているのも、最終的に戒壇大御本尊を宣揚するところにつながるわけ。
全く、中途半端な教学もどきで何を言ってるの?って感じですね。さらには、
▼「観心」と「本尊」の間に「の」の字を入れて読むのは、爾前教(にぜんきょう)や法華経迹門、
本門の文上(もんじょう)に説かれる「教相(きょうそう)の本尊」と区別する意味がある。
「観心(かんじん)」とは「教相(きょうそう)」の対語であり、
教相が経文を理論的に究明するのに対し、観心は、真理を己心に観ずる修行をさす。
これって本当に分かっていて言ってないですね。
「真理を己心に観ずる修行をさす」
違います。それは天台の観心であり大聖人の観心に対すれば
これもまた「教相」でしかないのです。
ところがランさんは天台の観心と大聖人の観心を完全に混同してしまうわけです。
もうこの時点で観心の本尊を分かっていないですね。
ていうか何のために、四義を説明したのかこれじゃサッパリわかりませんな。
話が全く繋がっていない。
これぞ創価の切り文教学の真髄ですね。
なのでこの回の最後に
▼民衆が困っている ""時""に
生きるという根本的なことで悩んでいる悩みに ""応じて""
末代幼稚の凡夫である我々の機根に ""あわせて(機)""
十界互具・一念三千の御本尊を「明鏡」として受持させ
開仏知見、ある仏界の生命を開かせる ""法""
これが正しい「時・応・機・法」のとらえ方である、と。
な~んていう己義を構えて
「私っていいこと言ってるなぁ」って酔っ払っちゃうわけです(笑)
全くここには大笑いです。
第2回の講義はさら可笑しくて
▼最初に本尊の話をすると祈ったら""功徳が御本尊からくる""という
""おすがり信仰""なってしまう恐れがり、前半=観心 後半=本尊 の流れになったのはそのためで、
最初kから全くの見当違い。
最初に天台の一念三千の出処をあげたのは
「理」の一念三千を最初の提示しその後「事」の一念三千へと論を進めるため
つまり「事」の一念三千の当体が大聖人の御本尊(観心本尊)であることを示すためです。
御書を講義するときにはちゃんと全体を読んでからして欲しいものです。
▼大聖人はこの「観心本尊抄」で、法華経方便品第二に説かれる文をとりあげ、
仏の【唯一大事因縁(ゆいいちだいじいんねん)】(仏がこの世にあらわれた目的)は、
【衆生をして仏知見を開かしめんと欲す】(衆生の中にある仏界を開かす)ことである、と述べられている。
なんて書いてあるが、その唯一大事因縁=出世の本懐を
「民衆仏法の確立である」なんて言ってるのが創価で
本当に唯一大事因縁が分かっていれば
そんな創価の教義に賛同するわけないんですね。
さて3回目になると添削のしようもありません。
▼仏と衆生に隔たりがなく""平等である""と仰られている。
法華経では、""仏とはどこか遠いところにいる特別な存在ではない""と説く。
仏とは、人間のことであり、釈尊、天台、伝教、大聖人のような偉大な仏の生命が、我々凡夫の中にもある、と説く。
などど、相変わらず「能所」「総別」「理事」の立て分けができていません。
つまり、3回も観心本尊抄の講義をしておきながら
「教相」と「観心」の違いを全く分かっていないわけです。(ヤレヤレ)
その証拠に、創価脳・ランさんはこの講義のあとに
「本尊義を語りながら観心ができていない方々」というタイトルの記事を書いてます。
内容は読んでまぜんが、このタイトルだけで分かっちゃいます。
この方は「観心が出来る」と思ってるわけでしょう?
完全に本尊が分かっていない証拠です。
もっとも、太ちゃんのブログによると
創価脳・ランさんは「ご本尊に対してピンと来ていない」と
ご自分でカミングアウトしてるそうです(笑)
まぁ、いまさらカミングアウトしなくても、最初から知ってますが(笑)
どっちにしても、大御本尊を捨てた謗法者が
「観心本尊抄」を読むこと・・いや開くことすら無駄なことなのです。
観心本尊抄の最後に
◆此の事日蓮身に当るの大事なり之を秘す、無二の志を見ば之を開・せらる可きか
と書かれています。
「無二の志」とは「大御本尊」に対する「無二の信心」です。
創価罵詈活謗法者は「見ても」「開いても」ダメだ。と大聖人は言われています。
まぁ、読んだところでこの程度ですからね。
どうしても読みたければ、日寛上人の文段を横において読みなさい。
ああ。持ってませんか?文段なんて(笑)
大作センセの与太話ばかりの書籍買うより
文段の方がよほど価値があるんだけどね。