創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

御講拝読御書研鑽(2021年12月・報恩抄)

仏法に入りて第一の大事なり愚眼をもつて経文を見るには法華経に勝れたる経ありといはん人は設いいかなる人なりとも謗法は免れじと見えて候、而るを経文のごとく申すならばいかでか此の諸人仏敵たらざるべき、若し又恐をなして指し申さずは一切経の勝劣むなしかるべし

今年最後の御講拝読御書は五大部の『報恩抄』からの一節です。『報恩抄』は大聖人の出家当時の師である清澄寺・道善房の追善として書かれた御書です。今回の御文はこの前文の◆問て云く華厳の澄観三論の嘉祥法相の慈恩真言の善無畏乃至弘法慈覚智証等を仏の敵との給うかの問いの答えです。質問内容は衆生から尊敬され慕われているような人師を仏敵というのか?という事ですが大聖人は法華経より優れた経が有るとという人間は仏敵であると明確に言われています。何故法華経が最第一なのかというと、

法華経を諸仏出世の一大事と説かせ給いて候は此の三大秘法を含めたる経にて渡らせ給えばなり(三大秘法抄)

と御妙判にあるように法華経の文底に全ての者の成仏の種(因)である法体即ち三大秘法が秘沈されているからです。法体の三大秘法とは日寛上人が『観心本尊抄文段』で、

◆就中弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の本懐なり。既にこれ三大秘法の随一なり。

と御指南されているように弘安二年の本門戒壇の大御本尊です。この本因妙の法体である戒壇大御本尊以外の本尊をたて戒壇大御本尊を下すような説法をする人間はいかに世間から尊く思われようとも仏敵であると大聖人は断言しています。それは大聖人が我見で言われているのではなく経文(文証)を論拠にして述べているのです。さて大聖人はこの後同じ『報恩抄』の中で、

日蓮此れを知りながら人人を恐れて申さずは寧喪身命不匿教者の仏陀の諌暁を用いぬ者となりぬ、いかんがせんいはんとすれば世間をそろし止とすれば仏の諌暁のがれがたし進退此に谷り

と言われています。つまり諸宗の謗法を言わなければ仏の金言を守らない者となり与同罪になるという意味です。これに関して『開目抄』では、

◆これを一言も申し出すならば父母兄弟師匠に国主の王難必ず来るべし、いはずば慈悲なきににたりと思惟するに法華経涅槃経等に此の二辺を合せ見るにいはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしとしりぬ、二辺の中にはいうべし

と「いいなさい」「折伏しなさい」と御教授されています。また本文の次下には

◆末の人人を仏敵といはんとすれば彼の宗宗の末の人人の云く法華経大日経をまさりたりと申すは我れ私の計にはあらず祖師の御義なり戒行の持破智慧の勝劣身の上下はありとも所学の法門はたがふ事なしと申せば彼人人にとがなし

とあるように世間の邪宗の信徒たちは祖師の教えを守っているだけで彼等の罪ではないと仰せです。つまり創価にしても顕正にしても一般会員さんには何の罪もないのです。池田大作や浅井昭衛という邪師とそれに与する創価・顕正幹部にこそその罪があるわけですからそうした者どもこそ破折の対象なのです。御書等には、

◆師堕つれば弟子堕つ弟子堕つれば檀那堕つ

と書かれているように人々が異流儀・邪教に染まってしまうのは師匠となった人間が謗法・仏敵になるからです。創価でいえば師は池田大作、弟子は創価幹部の事です。こうした仏敵によって一般の会員(檀那)さんも謗法異流儀に堕ちるのが仏法の方程式です。ですから池田や浅井そして創価・顕正の幹部活動家を破折することが罪なき一般会員さんを謗法・仏敵に堕とさないことになるのです。

さて日寛上人は、『報恩抄文段』で次のようにご指南されています。

◆ 問う、報恩の要術、その意は如何。答う、不惜身命を名づけて要術と為す。謂く、身命を惜しまず邪法を退治し、正法を弘通すれば、即ち一切の恩として報ぜざること莫きが故なり。

折伏・弘教こそが十界の衆生全てに対する報恩です。『報恩抄』の冒頭には◆仏教をならはん者父母師匠国恩をわするべしやと書かれているように仏法者であるならば折伏・弘教で報恩感謝をしていくことが大切でそれこそが報恩の要です。・・・と言われてもなかなか折伏という行動ができないというのも事実ですよね。そのような方は一旦、折伏を忘れて自行を目一杯してください。朝晩の勤行、唱題行。お寺への参詣、御書等の教学の勉強、可能であれば登山。そうした自行の手を抜かず日々自分が「やり切った」と思えるくらいやってください。折伏成就なんて考えなくてもいいし祈らなくてもいいです。中途半端に折伏成就なんて祈っていると祈っているだけで、なんだか折伏してる気分になって安心してしまいますから(笑)とにかく自行だけ精一杯するとと自然と折伏ができるようになります。日寛上人の

◆自行若し満つれば必ず化他有り。化他は即ち是れ慈悲なり(観心本尊抄文段)

との御指南にあるように、自行をやり切れば必ず折伏はできます。ともあれ、私達法華講員が折伏弘教することは一切衆生と御本仏に対する報恩であるということが一番大切な想いなのです。功徳が欲しいから折伏するわけではないのです。ビジネスの世界でも「仕事の後に金はついてくる。」「金を追わずに仕事を追え。」との教訓もあります。報恩の後に功徳はついてくるものなのです。

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