創価学会の永遠の指導者は言わずと知れた牧口常三郎・戸田城聖・池田大作の3人のことだが、現在の創価学会では牧口を「先師」戸田を「恩師」池田を「大師匠」というらしい。池田を強調するのが目的なのだろう。そんな創価三代会長について私感を書いてみたい。まずは初代会長の牧口常三郎はひと言で表すと【信心が分かっていなかった学者】である。誤解のないようにいっておくが牧口の日蓮大聖人の法門に対する理解は素晴らしい。今ほど資料や情報も多くなく入手も難しい時代で、しかも法主上人に直接御指南を受けた形跡もないのに大石寺教学の法門を理解することができた牧口の見識の高さは一流の学者でり教育者であったと認めるところである。しかし残念なことに牧口は法門は深く理解できていたが肝心の「信心」を最後まで理解することが出来なかったのである。『人間革命』で「牧口の価値論から入った、大善生活を思う時、そこには彼独特の倫理的臭味を帯びてくる。さらに大善生活の実践のために大御本尊を仰ぐ時、大御本尊は価値論の範疇に入ることになってしまう。ここに催尊入卑のきらいが陰となって射して来るようだ。」と池田大作が批判しているように牧口は大聖人仏法を自身の「価値論」より低い位置に置いた。また牧口は所属寺院の歓喜寮主管・堀米泰栄師(後の日淳上人)と論議し、「もう貴僧の指導は受けない」と席を蹴って退去(畑毛日記)し学会員の寺院参詣を禁止して戸田城聖等を仕向けて御僧侶を吊るし上げをした。日有上人が化儀抄で「貴賤道俗の差別なく信心の人は、妙法蓮華経なる故に何れも同等なりしかれども竹に上下の節のあるがごとく其の位をば乱せず僧俗の礼儀有るべきか」と御指南されているように日蓮正宗の「信心」とは師弟相対の信心がその根本である。僧俗の節目を乱し礼儀を欠いた牧口の言動は、「信心が分かっていなかった」からに他ならない。更に牧口の信心を端的に示すのが「わたしが嘆くのは、一宗が滅びることではない。一国が眼前でみすみす亡び去ることだ。宗祖大聖人の悲しみを私はひたすら恐れるのだ」(人間革命)という言葉である。創価学会ではこの牧口のセリフを称賛していているが、これは神札を受け取った宗門に対して述べた牧口の発言だが、当時の日蓮正宗は身延派との合同を強制される可能性があり、その状況を鑑みて軍部との無駄な紛争を回避するために神札を受け取ったという事情がある。ところが牧口は日蓮正宗が身延と合同して消滅しても構わないと言っているのである。そんなことになれば戒壇大御本尊は謗法身延日蓮宗の所有となり日興上人以来の唯授一人血脈は途絶える。それは日蓮大聖人仏法が消滅することを意味する。仮に創価の言うように神札を受け取っただけでも謗法だとしても、神札受け取るのと戒壇大御本尊を身延に奪われるのとどちらが罪が重いか比べるまでもなく分かるはずだ。しかし牧口にはそんなことも分からなかった。それは牧口が日蓮大聖人の仏法を単なる哲学・思想のレベルだと思っていて戒壇大御本尊と唯授一人血脈が日蓮大聖人の仏法の根幹だということが分かっていなかった証拠であり、牧口は「信心が分かっていなかった」ということになる。それは牧口が師弟相対で「信心」を学ばなかったことであり、自分は大聖人仏法を理解しているから指導は不要という傲慢さによる。つまり牧口はいわゆる「二乗根性」だったのである。法門法義を書籍や資料で学び理解することは可能だが、「信心」は書籍等では学べない。なぜなら信心は「心」でありその表現としての所作(化儀)だからだ。今の学会員のデタラメな所作をみれば御書だけでは「信心」は学べないことが良く分からるだろう。せっかく明晰な頭脳を持ち法門をほぼ完璧に理解しながら「信心」は全く理解できなかった学者。それが私の牧口常三郎評である。
創価学会の退会方法(静かに創価を去るために) - 創価ダメだしブログ
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