歴史認識は十人十色で、特に事実が釈然としていない歴史は常に論争の対象になります。日本ならば、「南京大虐殺」、「慰安婦」、「徴用工」、「沖縄戦」、「関東大震災での朝鮮人虐殺」などの論争はエンドレスに続いています。その歴史研究の素材になるのが「史料」で、文書・動画・音声・絵画・建築・遺跡・化石・道具という具体的に確認できる、「現存史料」と、「不在史料」があります。文献史料なら「最初から文献として書き残していない」か、「文献として書き残していたが紛失してしまったのが、「不在史料」で、こうした不在史料は、口伝による伝説や伝承によって確認します。日蓮正宗には血脈相承という教義があるのですが、身延日蓮宗や創価学会などは、文書史料がない事を理由に日蓮正宗の血脈相承を否定します。日蓮正宗の血脈相承は唯授一人の口伝ですから、文献史料を基本とする考え方はナンセンスですから、文献史料だけを論拠に否定するのは、歴史学見地でみれば非常に稚拙で無知性で非学術的な論証です。そもそも歴史においては記録として残っている事実より、残っていない事実の方が多いのです。記録として残っていない事実が伝承や伝説ですから、そのようなモノも史料として扱うのが「史料学」の基本ですなのですが、伝説・伝承の類を非学術的だと考える人が多く驚きます。さて史料から歴史を考察する時に重要なのは、【6W 1H】であると歴史学者の小島道裕氏は述べています。【6W 1H】とは、「Who(誰が)」、「Whom(誰に)」、Where(どこで)」、「What(何を)」、「Why(何故)」、「How(どのように)」です。このうちの「いつ・だれが・どこで・何を・どのように」という情報は、客観的・直接的に入手しやすい情報ですが、「誰に・何故」という問題については、直接的な情報を得ることは難しく、特に「何故」という部分は、仮説や推測の部分に頼ることが多くなります。この仮説・推測の部分を「現存史料」と「不在史料」を検討しながら歴史を探っていって、ひとつの結論を出していくのが歴史学であり、その結論が史観になります。そうした作業や考察をおざなりにした史観は非常に軽薄に感じます。日蓮正宗の歴史に関して創価学会員やアンチ正宗の人にちょくちょく批判されるのですが、彼等の日蓮正宗に対する史観は、史料の取り扱いが偏向的で聞くに堪えない粗雑な意見です。史観は自身のアイデンティティにもつながるので、史料をよく読み解き、自分なりの確固とした史観を持つべきでしょう。人間は自分の体験していない歴史から学ぶことはできません(学んでいたら戦争は起こりません)。歴史を学ぶというのは、史観を養うことに他ならないのです。史観は思想に大きく影響するので歴史を学ぶことは大切なことです。
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