創価ダメだしブログ

創価・顕正、その他異流義破折と日蓮大聖人の仏法を正しく伝えるブログです。日蓮正宗への勧誘サイトではありません。

アンチ正宗の『文献原理主義者』たちの誤謬

日蓮正宗への批判パターンで、大聖人や日興上人の御書や関連の文献の記述を挙げて、「日蓮本仏論」や「戒壇大御本尊」、「血脈相承」を否定してくる文献絶対論者が一定数いる。彼等は、文献に書かれている文証を提示して正宗教義を否定して、信徒である法華講に対し原理主義者などと批判を加えるのだが、こうした人たちこそ『文献原理主義者』ではないだろうか。文献原理主義達の論説は、一見すると学術的で客観的に思えるし、本人たちも自分は知性的な人間だと自負し、信仰者に無知性・カルトなどのレッテルを貼るが、彼等の論説は偏狭で短絡的でいくつもの誤謬がある。そもそも文献だけで宗教を否定すること自体がナンセンスだ。文献原理主義者の論に沿えば、文献が存在する『古事記』や『創世記』などの神話は全て真実という事になるが、それらの神話は非科学的で真実とは思えない。神話の類は文献に記載されている歴史的真実なのでなく、信者の心に存在する宗教的真実なのである。宗教的真実とは単純に文証(文献)の有無では語れない。また文献は最初にそれを書いた人物の精神的体験を含む実体験や、口伝・風聞を基にしているので、文献だけを頼りに口伝・相伝を否定するのは本末転倒だ。史料というのは文献だけはないのに、ひたすら文献史料だけにこだわるのは反知性としか言いようがない。日蓮大聖人の仏法に限定すれば、まず大聖人の御書は写本も含め現存するのは全体の約6割といわている。喪失した4割に、「日蓮本仏論」「戒壇大御本尊」「血脈相承」について明記されていた可能性もあるのだから現存している文献のみを対象として日蓮本仏論等を完全否定はできない。そんな巷間のアンチ正宗・文献原理主義者達の論説は目新しい内容は特になく、昔の身延学者などの論説を流用しリメイクしているだけの身延教学の出涸らしで無味無臭に近い。文献を研鑽することは否定はしないが、文献原理主義者の誤謬は文献だけから教義を探ることである。何故それが間違いかと言うと、御書等の文書から教義が生まれたのではなく、教義を書いたのが文書(文献)だからだ。宗教は「教義が先にありき」なのである。口頭で教えられ伝えられた内容を書記したのが文書なのだから、教え(教義)の全てが書記されたわけではない。こんな当たり前な事は少し考えれば分かるのに、文献だけで教義を知った気になってその是非を語るのは実に愚かしい。また文書史料を読む時には6W1Hが重要で、なかでも「誰に(whom)」に対して書かれた文書なのかが最重要となる。これは史料学の基本だ。いつも言うように御書は対機説法だから、与えられた相手が理解できない、「日蓮本仏論」「戒壇大御本尊」「唯授一人」など内容が書かれていないのは当然だ。それでも日興上人に対する両巻相承や御義口伝では大聖人本仏が明かされいる。相伝書等に関しては文献原理主義者は偽書だというが、確実に偽書だという論拠は無くあくまでも彼等の想像にすぎない。そして『戒壇大御本尊否定』に至っては、あれほど文献原理主義を主張しながら、「戒壇大御本尊についての文献がないから」後世の贋作という悪魔の証明による詭弁を弄する。語るに落ちるとはこのことである。文献原理主義者は宗教のドクマを非難する前に、「文献絶対」という自分自身のドクマを認識した方が良い。私から見れば「文献原理主義者」の方が信仰者よりもずっと文献絶対のドグマに縛られて知性や理性を失っているように感じられる。それは、文献原理主義者の対極の存在である「体験原理主義」の無知性な創価学会員と同じ思考なのである。

※退会相談・質問・疑問・対論など、常時コメント受付ています。

▼一日「イチオシ」お願いします

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会 批判・告発へ
にほんブログ村


創価学会ランキング

PVアクセスランキング にほんブログ村

 

PVアクセスランキング にほんブログ村