創価ダメだしブログ

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52年路線・宗門視点の真実②

前回までの話はコチラ▶52年路線・宗門視点の真実① - 創価ダメだしブログ

◆昭和四十七年に正本堂が建立せられた。その直後から非常に学会の態度がおかしくなってきた。大変僧侶も馬鹿にするし、また教義上に於いても非常に変化が多いように思う。そのつど私も種々な時にそれを指摘して、そういうことはいけない、日蓮正宗の教義に違うと指摘してきたつもりでございます。(日達上人・昭和53年2月9日)

正本堂完成時より萌芽した池田創価による教義逸脱・宗門蔑視が昭和52年1月15日の『仏教史観を語る』の発表により表面化すると事ここに至り宗門もまた池田創価への反撃を大ぴらに開始した。そこで池田は事態を収拾するために山崎正友氏に日達上人との調停役を依頼する。創価の真実では山崎氏が日達上人等宗門僧侶と結託して池田追放の謀略を画策したように言われているが山崎氏に調停役に依頼したのは当の池田である。池田としては山崎氏以外の人間を任命したかったようだがそれまでの宗門に対する不誠実な言動が原因で当時の創価幹部は宗門からの信頼を失っていて山崎氏以外に日達上人から信用される幹部がいなかったのである。そして山崎氏は「公の席で猊下にお詫びする。宗門と寺院・僧侶を尊重し信徒団体としての道を守るから末寺僧侶の学会攻撃を止めて欲しい」という趣旨の池田の言葉を日達上人に取り次ぎ実際に池田は宮崎県・日向本山定善寺の新築落慶法要で「どうか御尊師の方々には、私ども信者の、今までのわがままを、ここに謹んで御寛恕(かんじょ)くださるようお願いしたい」と池田は謝罪発言をした。ところがその謝罪発言の裏で山崎氏に内密で宗務院に昭和52年の年末に「五箇条の協定案」を送り付けていたのだった。その中身は簡単に言うと「宗門を今までのように外護するかわりに創価のやる事に口出すな」というものである。つまりは創価は「今まで通りにさせろ」と要求してきたのである。そもそも一信徒団体が親元である宗門に対して「口出しするな」という協定を持ちかけることがオカシナ話である。信徒団体であれば宗門の指導に従うのは当然だからだ。しかもわざわざ契約書(協定書)を作成しろとは信徒団としての節度・限度を超えるもである。もちろんその事を知った日達上人が激怒したことは言うまでもない。謝罪した舌の根も乾かないうちからこのような協定を要求されるのは日達上人からすれば池田と山崎氏に騙されたようなものだ。宗門はこうした池田創価の不遜な態度にどのように対応するかを協議すべく翌、昭和53年2月9日に「緊急代表者会議(時事懇談会)」を開き創価からの「五箇条」には回答せずに「学会と別れてやっていくべきかどうか」のアンケートを集めてその結果を宗会で審議するという決定をした。そのようなアンケートを取れば宗門が学会と別れるという結果が出るのは必至でそれまで宗門を舐めてかかっていた池田は慌て狼狽え2月12日・14日の2度日達上人にお目通りし創価の教義逸脱・宗門蔑視を改めそれを会員に徹底することを約束するとともに創価の誤りを指摘して欲しいと懇願し2月22日の2回目の「時事懇談会」おいて「学会と別れて云々」のアンケートは取らない方向にしてもらった。この2回目の「時事懇親会」の砌に日達上人は

◆私のたてまえとして、今まで学会と仲良くやってきた。今後も、仲良く手を握って広宣流布に向かっていく、ということが良いけれども、それはたてまえとしてはそうでありたい。しかし、私個人の心からいけば、それはどうしても、ちょっとまずいことがあれば、いちいちケンカをしているよりも、いっそ別れて、自分らで、小さくてもいいから、昔みたいに小さくなってもいいからやっていくと、そういう心では思っている。

とのお言葉を残している。いかに池田創価が宗門に対して不遜な態度をしてきたが良くわかるお言葉だろう。このような経緯を経て6月19日には宗門から54項目の質問状が創価に送られそれに基づいて所謂「6・30」と呼ばれる「教学上の基本問題について」の釈明が聖教に掲載された(特別学習会テキスト)この原案を作成したのは原島嵩教学部長(当時)でその原島氏によれば原案ではもっと明確に創価の間違いを記述したものだったそうだが、実際に聖教に発表された内容は「特別テキスト」を読めばわかるが非常に回りくどい分かりずらい内容になっている。これは池田の指示によるもので、会員には池田創価が間違いを犯し謝罪していると思われないように理解しずらいよう変更されたものだった。また宗門に対する謝罪もほとんどなくしかも聖教の3~4面という目立たない場所に掲載するという日達上人や宗門との約束を反故にするようなものだった。思えば戒壇大御本尊を放棄した時も聖教3~4面に分かりずらい解説を掲載したがこの手法は会員を欺く創価の手法なのだろう。いずれにせよこのような池田創価の欺瞞に満ちた対応は創価批判派の活動家僧侶(後の正信会)たちに創価批判の新たな口実を与え火に油を注ぐ結果となりその結果、全国で毎日のように創価退会者が現れるという事態にエスカレートしていく。そんな中で昭和53年9月に池田創価による「本尊摸刻事件」という大謗法事件が発覚。他にも「御観念文改竄事件」や目黒文化会館を御本尊ごと公明協会に譲り渡すなどの池田創価の謗法行為が次々と明らかになっていき退会者は日増しに増え創価崩壊の危険が迫る状況になった。こうして四面楚歌となった池田は再び調停役として山崎氏を頼った。前年の調停時に池田から騙され日達上人にウソをついた格好になった山崎氏だったが当時仲の良かった溝口青年部長を使って懐柔を図ってきた創価に対し不承不承ながら再び池田創価と日達上人との調停を引き受けた。【四面楚歌君がおわせば王の道】なる池田からの色紙を山崎氏が第一庶務から受け取ったのはこの時である。しかしこの時の宗門の活動家僧侶は既に日達上人の言う事も聞かないほどの暴走状態だった。そこで山崎氏は活動家僧侶と学会幹部(野崎氏や溝口氏など)との直接対話の場を作り関係改善を図ったが事態は好転せず結局は山崎氏が日達上人とお目通りすることになる。この席で山崎氏は日達上人に、【1法義の誤りは末端会員まで速やかに徹底して是正する。2創価の規則を変更し会長の終身制を廃止し選挙で選出する。3池田大作をはじめ幹部全員がお詫び登山をして御僧侶方の前で日達上人にはっきり謝罪する。】という条件提示をし活動家僧侶の創価批判を一切中止して欲しいと依頼した。そうした経緯があり、昭和53年11月7日に通称「お詫び登山」が実施されたのである。その様子をご覧になった日達上人は僧侶を集め半年間は停戦し池田創価を見守っていこうという趣旨の話をされて活動家僧侶達も一応の納得をしたのだった。「半年間」というのは宗門と創価側との合意の下で決められた期間である。しかし、その話も(合意)も11・7の「お詫び登山」が終わった瞬間に池田によってぶち壊されることになった。to be continued・・・

 

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