身延派の僧俗や、創価崩れの正宗アンチなどが正宗批判をする時のパターンとして偽書論を持ち出すという手口があります。真筆や古写本が存在しない大聖人の遺文(御書)を研究対象から除外し天台本覚論的な御書を排除する文献学的な研究態度は、身延派のルールで立正大学が東京の大崎にあることから【大崎ルール】と呼ばれています。この【大崎ルール】を基準にして、日蓮正宗大石寺の教学は「通常の仏教学から外れた大石寺独自のモノであるので学術的に通用しない。」などという批判をしてくるわけです。まるで【大崎ルール】こそが仏教学界の常識・共通ルールと言わんばかりなのですが、実は【大崎ルール】は、仏教学界隈の常識でも共通ルールでもなくて、単なる【身延派日蓮宗のローカル・ルール】に過ぎません。つまり彼等の正宗批判は自分たちのルールを基準にしているだけで、客観性も中立性も担保さていないのです。それを恰も自分達はアカディミックで、正宗の教義はオカルトのような決めつけをして、「日蓮正宗は間違っている」と言ってのすから、卑怯で愚かとしかいいようがありません。私は文献学の研究を否定しませんが、「真筆・文献至上主義」の【大崎ルール】には多くの瑕疵があるので、そんなルールでしか正宗批判をできない人達に日蓮正宗を批判する力量はないと言っているのです。真筆や写本がない「真偽未決書」を「偽書」と切り捨てるのは、今後の研究で真書と証明される可能性がある文書を排除することになり乱暴です。また、彼等(身延派)の偽書判定の根拠が不十分であり、独善的な部分が見受けられるという問題点もあります。そして何よりも【大崎ルール】の問題点は、このルールでは、肝心の仏教思想(宗祖思想)が理解できないところです。仏教とは文献の真偽を調べるのが目的ではなく、あくまでも宗祖の思想を知ることが目的です。例えば法然は『選択集』を含むほとんどの文献は真筆が残っていません。道元の『正法眼蔵』も真筆部分は一部で、全てが道元の筆ではありません。有名な親鸞の『歎異抄』に至っては弟子の「聞き書き」なのですが、【大崎ルール】を適用すると、これらの文献全てを切り捨てることになり、これでは大聖人はもとより、法然・道元・親鸞等の思想研究など不可能なのです。これでは仏教を学ぶ目的が那辺にあるのか分かりません。このように【大崎ルール】は、非常に瑕疵が多いので仏教研究において異端で批判も多いルールで、決して仏教界全体の共通ルールではないのです。いわば、「身延派の身延派による身延派の為のルール」です。おそらく富士大石寺(日蓮正宗)との法論で数百年間、連戦連敗の恥辱の歴史をもつ身延派が、大石寺教学に対抗しようと考え出した苦肉の策だったのが【大崎ルール】だと思われます。そんな自分達に都合のいいローカル・ルールで日蓮正宗を批判してくる人々の知性の低さには失笑を禁じ得ません。文献学を持ち出していかにも「学術的・知性的」と思わせるのが彼等の手口ですが、それを恐れたり、それに騙されたりしてはいけません。彼等は全く日蓮大聖人の思想を理解しないまま批判をしてくる反知性な人達なのです。だいたい、「法を論じている(法論)」る時に、文献学を持ち出して反論するのは、既に反論不可能だと言っているようなものです。そして、この「大崎ルール」に基づいて編纂されたのが『創価学会教学要綱』です。そんな教学を受け入れている創価学会員もまた、身延派界隈の反知性な人たちと同類なのです。
創価学会の退会方法(静かに創価を去るために) - 創価ダメだしブログ
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