キリスト教の信仰をひと言で表すとしたら『贖罪信仰』です。『新約聖書』のメインは何といっても、イエスが十字架にかけられ処刑され、そして3日後に復活する場面だと思っていますが、イエスが処刑されたのは全人類の原罪をイエスが一人で贖うためであるとキリスト教では教えます。原罪というのは、神の楽園で神から食べる事を禁じられていた善悪を知る『知識の木の実』をイブとアダムが食べてしまった人類の最初の罪で、アダムの子孫である全人類は生まれながらしてこの罪を背負っています。この時点でもうイラっとします。自分が直接犯した罪ではないのに全人類に全体責任を負わせるなんて、昭和時代の部活顧問の不条理なパワハラです。そんなパワハラ神に対してイエスは自身の命を犠牲にし人類の罪を贖い救った(贖罪)というのです。「私が一人で君達の罪を贖ってあげました。全部私がやりました!」って池田大作か!(流石に池田と同じにしたらイエスに失礼か)。因みに、キリストというのはメシア(救世主)と言う意味で、イエスキリストは「救世主のイエス」という意味になり、キリスト教信者以外はイエスにキリストという言葉を付けず、ただの「イエス」と呼びます。さて、ここで普通に考えればイエスの死によって人類の罪は全て無くなったのだからもう人類に償うモノはないではないかという疑問がわきますが、実はイエスは原罪を帳消したのではなく、人間が罪を犯した時に神に赦してもらう約束をしただけなのです。だから人類の罪は無くなっていません。その罪は聖書に色々書かれていますが、カトリックでは「七つの大罪」として、傲慢 ・強欲・嫉妬・ 憤怒・色欲・暴食・怠惰を挙げていて、人間が生きていれば普通に犯す罪です。これらの罪を赦す権限があるのは、贖罪によって人類の赦しを神と契約した神の子のイエスキリストだけで、キリストを信じてれば全ての罪を悔い改めることができ最後の審判の時に永遠の命を与えられるという次第です。どうですか?キリスト教はあまりにも不条理すぎませんか?アダムの犯した原罪を人類の全体責任としたり、また自分の犯した罪を他人(キリスト)に赦しを請うのも何か違うし、逆に言えば赦しさえ乞えば(キリスト教を信仰すれば)罪を犯してもOKとなりかねない。(この辺りは念仏宗と同じ)何よりも常に罪に怯え、罪を償うために生きていく人生って窮屈すぎるし、神の支配下に置かれる宗教に真の精神の解放はないと思います。これはキリスト教以外の一神教にも共通します。このように「贖罪論」は「不条理な理屈」なので常に批判に晒されています。そしてキリスト教側からの反論はやっぱり「不条理な理屈」なのです。その点ではイスラム教やユダヤ教のように理屈抜きで神に盲目的に従う方が分かりやすいです。因みに「愛」を説くキリスト教でも、「同性愛」は罪です。同性愛者はその罪と向き合って生きていかなければ赦されません。罪だと思わない人はクリスチャンだとしても赦されないのです。仏教では「同性愛」であっても成仏できるので、同性愛者にはキリスト教では仏教の方がお勧めです。
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