「極悪と戦う」といいつつ不戦敗で本ブログから逃げ去った
創価婦人部の脳ランさん。
しばらくの間は自分の無知を恥じて大人しくしてしてたので
少しはオトナになったかと思いきや
最近またも自身のブログで低レベルな創価教学を
「いかにも」という感じでご披露している。
まぁ放置プレーでもいいが、彼女は羞恥プレーがお好きなようなので
その脳みそパーンな創価教学をいじってあげよう。
さて、膿ラン氏がいうには、
※弘安二年の大御本尊は、大聖人が全世界の民衆の幸せを願ってあらわされたものです。
しかし現在は謗法の地にあるので信受の対象としないだけであって、大御本尊そのものを否定しているわけではないので、そのご内証を書写された日寛上人の御本尊を受持の対象とすることは何ら問題はないはずです。
だそうで、全く相変わらずの狂いっぷりで成長のあとが見えない。
まづ何度も書くが、大御本尊とは大聖人の色心二法でありご本仏である。
仮に謗法の地にあろうとも何だろうとご本仏はご本仏なのである。
謗法の地にあったら仏でなくなるご本仏なんて存在しない。
なので謗法の地にいる仏を信受しないというのであれば、
末法のこの時には、この娑婆世界は謗法の地なのであるからなにも信受できないということなる。
そういう奴は、極楽浄土の阿弥陀仏でも浄瑠璃世界の薬師如来でも拝んでいればよろし。
また、これまた何度も書くが大石寺が謗法であるという論拠がまるでない。
謗法と言うのは誹謗正法のことで、大聖人門下であれば大御本尊を誹謗することが謗法にあたる。
創価を破門しようと大作を非難しようと正本堂を壊そうと坊主が贅沢しようと
そんなことは全く謗法行為に該当しない。
そして日蓮正宗が大御本尊を誹謗した事実はどこにもない。
故にこの理論は前提からして破綻している。
というか「正宗が謗法である」という「結論ありき」の愚論なのだ。
そして、もっとも笑えるのがこれ。
※何ら問題はないはずです
「ないはず」だそうだ。
ここまで偉そうに言っておいて、最後は「はず」というこの希望的憶測(笑)
「お願いだから問題ないっていって」と言っているように聞こえる。
しかし残念ながら、大御本尊を受持しない創価が日寛上人書写の本尊をコピーしてつかうのは
問題ないはずがない。のである。
ランおばちゃんの個人的感想・希望的妄想は読んでるこちらが赤面してしまう。
しかも言うに事欠いて、日興上人の
◇「地頭の不法ならん時は我も住むまじき」
の御文まで引用するっていうんだから恥の上塗りもいいとろだ。
「地頭」って意味知っているのか?
「法主」と「地頭」が同じだと思っているのか?
日興上人と波木井実長が同格だと思っているなら
日興上人の御文を切り文するのはおかしいだろ。
むしろ「不法な地頭」とはオマエのセンセのことだろう。
日興上人の御文の通りなら、創価なんかに大聖人の魂はない。ってことだろ(笑)
本当に頭が悪杉である。
で、当ブログコメントしたときに全く文証が出せなかったのを反省したのが今回は
※また一生成仏抄では、「都て一代八万の聖教・三世十方の諸仏菩薩も我が心の外にありとは・ゆめゆめ思ふべからず」と自分の心の以外に法をもとめてはいけないと仰せられています。
「我が己心中の南無妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて顕れ給う処を仏とは云うなり」(法華初心成仏抄)
我が己心中の仏性、南無妙法蓮華経を本尊とあがめよ、と。
つまり御本尊とは、現代風にいうと私たちの中にある最高に素晴らしい生命をあらわしているのです。
なにも大御本尊を拝まないと、成仏できないということはないのです。
その証拠に御書には大御本尊に関する記述がありません。
一応、御書を引用してそれっぽく書いちゃいるが
これまた、相変わらずの自分の主張に合わせて切文しているだけ。
まづコイツラはね大聖人の一期の化導の次第ってのを全く分かっていない。
一生成仏抄は佐前の御書なわけ。
佐前の化導というのは権実相対が主眼で題目流布がメイン。
「心の他に法があると思ってはいけない」というのはね、権経(特に念仏)を破しているわけ。
そしてもうひとつはこのご指南は「勧心(修行)」に対するご指南であって
「本尊」にたいするご指南でないのだよ。
もし一生成仏抄のこの部分をそのまま鵜呑みにするならば、
この御書と同時期に書かれた「唱法華題目抄」には
◆問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし、
と書かれているのだから、曼荼羅本尊ではなく釈迦仏や法華経を本尊とするのか?
全くバカ丸出しである。
そしてあとから引用した「法華初心成仏抄」は身延期だから当然本尊は曼荼羅本尊を指す。
故に「我が己心中の南無妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて」とは
◆日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし(経王殿御返事)
の本尊であるので「我が己心」というとき、それはご本仏大聖人の己心を指す。
また勧心本尊抄では
◆一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う、
と「仏」が「衆生」を導くのだと明確に書かれている。
つまり、「自分の心が本尊」などという本尊観は全くの間違いである。
「御講聞書)」には
◆能と云うは如来なり所とは衆生なり能所各別するは権教の故なり、法華経の心は能所一体なり
とのご指南がある。
ここでいう能所一体と言うのはあくまでも「法華経の心」
即ち大御本尊に開会されて初めて衆生は成仏するということだ。
「人開会」ってやつだ。こんなん基礎中の基礎である。
つまりだ、自分自身が本尊なんていうのはむしろ権経の教え・・
いや仏も必要としないのだから外道の教えなのである。
さらに、相変わらず大御本尊に関する記述が御書にない。というアフォ丸出しの発言。
お前は身延か?習い損ないの大作センセを師匠なんかにしてるからアフォになるのだよ。
御書に書いていない選挙だ新聞だ財務だなどを「信心」と言ってる奴が
な~にが「御書に記述がありません」だ。
ねごとは寝てからにしてくれよ(笑)
それにしても全く膿ランおばさんには困ったもんだ。
人様の質問に答えるのならばもう少しお勉強しなさいな。
こんな恥かしいバカ丸出しな創価熟女の
羞恥プレーを見せるだけでは相手に失礼というモノだよ。