現代では西洋絵と日本絵画に大きな違いは感じませんが、明治維新前の絵画は西洋と日本では大きく違っていました。西洋絵画では絵と文字を一緒に書くことは特別な絵画を除いてはダブーとされていましたので、いわゆる「文字絵」(絵と文字が両方書いてある絵)はほぼありません。また、近世以前の日本絵画は浮世絵にせよ水墨画にせよ「描き残し」とも思える余白の空間が存在する作品が多いのですが、余白のある絵画は西洋では「未完成」扱いで日本画は西洋人からすれば独特です。この余白が日本画の大きな特徴です。その他にも輪郭線を描くのも日本画の特徴です。

上の画像は、葛飾北斎の『富岳三十六景』の有名な絵ですが、輪郭線を描き、絵の中に『富岳三十六景空』等との文字が書かれている一方で雲や富士山周辺の景色が描かれていません。このような、「描き残し」日本画の究極は、円山応挙の国宝『雪松図屏風』だと思います。

松の木に雪が積もっている屏風絵なのですが、実は「雪」の部分は「何も描かれていない」描き残し(余白)の部分なのです。余白で雪を表現したこの絵には、ただ感嘆するばかりです。このような空間美が日本画の魅力です。こうした日本画に代表されるように、余白(空間)に美しさを感じとるのは日本人独特の感性ではないでしょうか。絵画に限らず、華道や書道などのも「空間」の芸術です。この感性は日本人の信仰観から来ているのではないかと私は考えています。神道では依代の周辺に結界を廻らせ、その結界に仕切られた空間全体を神聖な場所とします。皆さんも神社仏閣を訪ねた時に社殿や伽藍もさることながら境内の空間そのものに、神聖で非日常的な雰囲気を感じることがあると思います。私も日蓮正宗総本山の大石寺行くと、広々とした境内の空間に歴史や伝統、権威等を感じ、その空間と伽藍が渾然一体となっている風景に荘厳な美しさを感じます。神社仏閣というのは社殿や伽藍だけではなく、周囲の何もない空間と一体となって存在しているから、人はそこに癒しや安らぎなど感じるのだと思います。また仏教でいうならば「空間」は「空観」に通じているようにも思えます。「何もない」のではなく、その「空間」に一瞬にして永遠、無常にして常住の理が存在します。日本人はこうした信仰心と共に余白の美を感じ取る感性が自然と身に付いているのだと思います。だから西洋人がみたら書き残しのある未完成な絵を、私たち日本人はそこに「わびさび」を感じて、「未完成だからこそ美しい」と感じるのだと思います。『徒然草』で、「全て何も皆、事のととのほりたるは悪しきことなり。し残したるを、さてうち置きたるは、おもしろく、生き延ぶるわざなり」と完全に整っているものは面白くないと吉田兼好もそう書いています。だた最近では日本でも欧米型の唯物思考が浸透してきて、日本人の感性が鈍感になっている気がして憂いています。日本人はもっと日本文化に触れ、旧習を大切にし、時には神社仏閣を訪れ、日本人としての感性やアイデアを失わず、守り伝えていくべきだと思います。とはいえ近年では京都・奈良・鎌倉などの神社仏閣には外国人観光客が溢れかえっている状況で、本来は神聖であるべき場所も観光の用に供されてしまっているのは残念なことで、神社仏閣で不敬な行動をしている外個人をSNSで目にするたびに悲憤慷慨しています。そこでお薦めなのが、「大石寺」です。観光地の要素が全くない大石寺に来て心の洗濯をしてください(笑)。日本画とは関係ない話になってしまいましたが、たまには中世~近世の日本絵画を観て、自分自身の日本人としての感性を磨き再確認するのもいいものですよ。今は美術館にいかなくてもネットもみる事が出来ますからね。もちろん美術館で観賞できるならば、それに越したことはありません。
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