過日、生死一大事血脈の、
◆所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を「是人命終為千仏授手令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候
この御文について、学会員が「死んだら多くの同志が迎えに来る」
というような指導をしているというコメントを倫子さんからいただいので
今日はこの千仏来迎について書いてみる。
なんともまぁ~適当というかなんというか、
会員さんに向けてなんとか「いい話」をしたいのだろうけど
やはり「御書」はキチンと読まなければダメだし、切文で利用するもんじゃない。
そして、ハッキリいって臨終の時に創価の同志が迎えに来ることはない。
まず教学的なことを言うと、「千仏来迎」とは
◆千仏とは千如の法門なり(御義口伝巻下)
この「千如」とは、十界互具・十如是のことで、一念三千のうち三世間が依報なのに対し千如とは正報にあたる。
「一念」とは千如であり正報・「三千」とは三世間で依報ということで、
つまり千如の法門とは、我が一念の法門ということになる。
次に臨終只今にあり。とはいわゆる臨終正念であり、「正念」の「念」は一念で
臨終にあたっては「正しい一念」つまり「正法を思う」ということなる。
「正念」することによって、依正不二の原理で
千如の法門はそのまま千仏となって現れる。これが千仏来迎であろう。
で、正しい一念とは冒頭の御文の前文に
◆然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり
と書かれている。こういう御文を読むと創価はご本仏も自分も全く差別がないんだ。と倒錯するが
いつもいうようにそれは総じての理であって、別してこの御文を説明すれば
久遠実成の釈尊=報身、皆成仏道の法華経=法身、我等衆生=応身
この部分は三身即一身・一身即三身の無作三身のことを言われいる。
そしてその無作三身の体とは
◆されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり(御義口伝巻下)
との御文にあるように、大聖人の「色心二法」の体・人法一箇の大御本尊のことで、
この大御本尊を信じて題目を唱えることが大聖人の弟子旦那の肝要ということだ。
そしてその信心(大御本尊への信)が「正念」であり
その「正念」により千如が千仏として顕れる「千仏来迎」となるのである。
また以前も書いたが「臨終」には、「多年の臨終」と「刹那の臨終」の二種類がある。
「多年の臨終」とは簡単にいると毎日・、瞬間瞬間の臨終であり
「刹那の臨終」とは実際に今世での「死」である。
「臨終正念」とは「多年の臨終」がメインであり、
大御本尊を信じての日々の勤行・唱題が「臨終正念」となる。
その信心のところに千仏が来迎し今世では守護し、
刹那の臨終には千仏が迎えに来るということである。
故に大御本尊を捨てた創価の信心は「正念」ではない。
所詮臨終只今にありと解りて信心を致していないし
三つ全く差別無しと解っていない。
なので千仏来迎することはない。
そもそも大御本尊を捨てた学会員は仏界に存在しないので迎えにこようにも来れない。
◆法華不信の人は命終の時地獄に堕在す可し、経に云く「若人不信毀謗此経即断一切世間仏種其人命終入阿鼻獄」と、法華経の行者は命終して成仏す可し是人命終為千仏授手の文是なり、千仏とは千如の法門なり謗法の人は獄卒来迎し法華経の行者は千仏来迎し給うべし、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は千仏の来迎疑無き者なり(御義口伝巻下)
との御文にあるように、大御本尊を捨てた創価を迎えに来るのは獄卒である。
また、破門前に亡くなられた学会員さんも「上無量」というように残った家族が謗法をすれば同じく無間に落ちてしまっている。
だから、「創価の同志」が迎えに来たのならそれな千仏来迎ではなく獄卒来迎であり
行き先は霊鷲山ではなく無間地獄なのである。
いづれにせよ、死ぬときに「千仏」がお迎えに来てくれるかどうかは
死んだことがないので分からないが
学会員が迎えにきたらと思うと気持ち悪い。
それならお迎えに来なくていい。一人で行くって思う。
そして学会のわけの分からない友人葬で獄卒に送られるのいや。
臨終正念の信心をしてけば、毎日が千仏来迎である。
決して創価が来迎することはない。
私なんぞ、来迎どころか街角で顔見知りの創価の人間に会っても
向こうの方が逃げていく。
たまには獄卒も来迎してくれれば、がっちり破折できるのに残念だ。