私が創価未活動家だった頃、当時の男子部長が週一くらいで家庭訪問に来ていた。その部長は来るたびに玄関先で御書の一節を読んで解説してくれた。当時は色々と苦しい時期で勤行をやり始めて、日蓮大聖人の仏法を知りたいと思っていた頃だった。ある日、大聖人の仏法を知る方法をその部長に尋ねると、大聖人の仏法は御書に全部書いてあるという。そこで約1カ月かけて御書を全編読破した。もちろん何が書いてあるか全く分からない。そこで部長に、「御書を全部読んだけど全く分からなかった」というと、部長は「会合に参加すれば分かるようになります」と言った。苦労しながら御書を全部読んだのだから、何としても大聖人の仏法を分かりたいと思ったので男子部に会合に参加することにした。これが私の創価活動家の第一歩だ。これで大聖人の仏法を色々と教えてもらえると意気揚々と会合に参加したのだが、現実は私が思っていたモノとは違っていた。創価の会合で教えてくれるのは、大聖人の仏法ではなく『創価学会活動』のことばかり。座学(教学)は、『小説・人間革命』や池田大作スピーチの学習ばかり。正直、私の求めた事と違った。男子部の会合ではダメなのか?と思って座談会などにも参加して、御書講義を聞くけど『大白蓮華』に書かれていることを読んでいるだけ。仕方ないので教学や化儀についての質問をするのだけど、いまいち分からないし人によっていう事が違うなど納得いかない回答ばかり。そのうち選挙戦が始まって会合も選挙の話ばかり、その頃には地区Lになってしまっていたのでそのまま活動家になってしまった。結局、創価の会合に参加しても信心のことは何も教えてもらえず独学で学ぶことになった。御書講義の書籍を学会員から借りて研鑽し、聖教新聞社発行の日寛上人の六巻抄の文庫本を購入してコツコツと研鑽して、十大部はもとより『御義口伝』を含む御書の7割くらいは自力で研鑽した。そんな体験から部幹部になって部活の主催を出来るようになってからは、部活は毎回御書を中心とした教学をメインの会合にした。そしたらなんと会合に参加するメンバーが増えた。そして派遣の部長になって初日の部活で御書講義をしたら派遣先の部員たちは誰も御書を持参していない。何で御書を持ってこないのか聞いたら、前の部長は御書をやらなかったからだという(私の前任の部長は現在の地元組織の県長)。「嗚呼、この支部もそうなんだ」と思った。もちろん、その後は全員が御書を研鑽するようになって活動家も増えたが、日程の連絡、ひと言発言、人間革命の読み合わせ、幹部の指導、そんな創価学会活動の話だけで何の学びもないような会合に参加しても時間の無駄でしかない。何よりも信心の喜びがない。今にして思えば創価衰退の因は既にこの頃に作られていたのだろう。大聖人の仏法を教えてもらっていない当時の男子部が今壮年部になっているのだから衰退するわけだ。創価学会員は、創価活動が信心だと教えられ、創価本部が戒壇大御本尊を棄ててもデタラメな教義を作っても創価活動だけしていれば間違いないと思っている。宗教団体が教義を教えなくなったらもう宗教団体ではない。もっとも今の創価には教えるべき教義はないと言った方が正しいかもしれない。もちろん日蓮大聖人の仏法をこのまま捨て去るのも自由だが、もし求道心が少しでも残っているなら自力で大聖人の仏法を学ぶ以外にない。求めるべきは創価本部でも池田大作でもなく日蓮大聖人なのだから。
■創価学会の退会方法(静かに創価を去るために) - 創価ダメだしブログ
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