今回の創価仏事の非常識は【引導】について。青年僧侶改革同盟(以下ニセ坊主と呼ぶ)の連中が、引導や導師本尊を否定する理由は、創価の友人葬を正当化するのが目的で、別に仏教の本義を説法しているわけではない。何度も書くが彼らは所化小僧の段階で日蓮正宗から脱落し、その後に僧侶としての修行もなく、且つ素人と大差ない程度の仏教知識しか学んでいないニセ坊主。そんなニセ坊主がまともな仏事を偉そうに語ること自体がギャグなのである。そんなニセ坊主は書籍で、葬儀で引導文を読むのは中国の禅宗が始めた事だから大聖人の仏法とは関係のない化義だと言っている。そしてその後に日有上人の『化義抄』や日亨上人の御指南を引用している。しかしその引用した御指南には「引導文不要」など書かれていない。「引導の心得」が書かれているのだ。つまり「引導文不要」どころか、むしろ日蓮正宗の葬儀では「引導文を読む」のが正式であるという証拠である。ここで思い出して欲しい。ニセ坊主等は葬儀に僧侶を呼ぶようになったのは江戸時代になってからだと主張していた。ところが江戸時代以前の日有上人の『化義抄』には既に引導に関する御指南が書かれている。つまり日有上人以前より富士日興門流においては葬儀において御僧侶が引導回向をしていたのである。なんという自語相違だろうか。またニセ坊主や創価洗脳員は「成仏は生前の信心による」というが、生前に勤行すらしていない人も創価葬で葬儀をしている。私の祖母などまさにこのタイプだ。ニセ坊主・創価の理屈であるなら、このような生前に信心が弱かった創価員はどんな葬儀をしようとも成仏しないということになるが、それはどう説明するのだね。「貴方のお婆さんは生きている時に信心してないから成仏しないよ」とでもいうのかね?それとも儀典部というスーツ着た創価のオッサンと、ほとんど面識もない創価の連中が葬儀で勤行すると成仏するのか?ならば生前の信心など無関係だろう。だからこそ葬儀で御僧侶に引導して頂く意義があるだ。『上野殿御返事』の、「相かまへて相かまへて自他の生死はしらねども御臨終のきざみ生死の中間に日蓮かならず・むかいにまいり候べし」との御文を日亨上人は、「必らずしも大聖人様が 死者の枕辺に来れなくとも、弟子である僧侶代理として出張されることがこの義に当あたる」と「迎僧」の例をもって釈している。つまり正宗僧侶は日蓮大聖人の代理として故人を常寂光土へ導く役目を担っているのであり、それにより生前に信心が弱かった信者も三悪道に堕ちることなく成仏するのである。創価儀典部のオッサンや創価ニセ坊主のように、ただ勤行・唱題してるのとは訳が違う。そもそも謗法の創価員やニセ坊主が大聖人の代理になれるわけがない。そんな連中に葬儀の導師をされては故人はどこに連れていかれるか分かったものではない。日有上人が『化義抄』で「仏事追善の時の引導回向の時、私の心中有るべからず、経を読みて此の経の功用に依って、当亡者の戒名を以って無視の罪障を滅して成仏得道疑いなし、乃至法界平等利益。」とご指南されている通り、成仏得道の印である「戒名」を以って、日蓮大聖人の名代である御僧侶の引導で葬儀を行うのが富士日興門流の葬儀の常識である。哀れにも創価ニセ坊主にはそれが出来ないから懸命に正宗仏事を否定しているだけだ。そしてこんなニセ坊主の虚言に誑かされ故人を無間地獄に引導する学会葬を執行する学会員一家は憐れである。
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