今回の創価仏事の非常識は「戒名」についてだが、一人前の僧侶になる前に日蓮正宗から脱落した青年僧侶改革同盟破折(以下コスプレ坊主と呼ぶ)は、「戒名とは、もともとは僧侶が出家得度するときに戒律を守ることを誓う意味で、師匠から授かる“修行名”をいいます」と素人同様の説明をしているが、「戒名」の起源を無知なコスプレ坊主の大好きな釈迦の仏教の本義から教えてやろう。釈迦の初転法輪の話として次のような話がある。悟りを開いた釈尊が元の修行仲間に法を説くために鹿野苑に向かっていた時に、釈尊に気付いた5人の元修行仲間は苦行を捨てた釈尊を軽蔑していて歓迎をしないように話し合っていた。しかし釈尊の姿を見て畏敬の念を抱き自然に立ち上がって釈尊を歓迎し「ゴーダマよキミ(君)よ」云々と呼びかた。釈尊はそんな五人に、「悟りを得た如来、仏にゴーダマ(釈尊の俗名)とかキミよなどと呼びかけてはいけない」(『マッジマ・ニカーヤ』)と言った。有名な話だからコスプレ坊主共もまさか知らない訳はなかろう。つまり釈尊は、【仏になった者を俗名で呼んではならない】と戒めているのである。この仏教の本義からいえば、戒名は“修行名”などではないのである。故にコスプレ坊主の「修行名としての戒名の本義から考えれば、広宣流布に戦い抜いた故人のお名前こそ大聖人が御照覧あそばされる尊い仏道修行者の“戒名”ではないでしょうか」などという主張は、仏法の本義に無知な戯言なのである。こんな低レベルのコスプレ坊主が仏事の常識や非常識を偉そうに語るとは笑止千万である。仏法の本義で言えば「戒名」とは釈尊が弟子たちに記別を与えたように仏が成仏を保証した証しとしての名前なのである。舎利弗の例で言えば「舎利弗」は俗名で「華光如来」が戒名である。従って「戒名が無ければ成仏できない」のではなく「戒名は成仏したという証明」なのである。戒名を与えず俗名のままの創価葬儀においては故人は成仏していない事を意味する。またコスプレ坊主は「死後戒名は日蓮大聖人の時代にはありませんでした」と言っているが生前に戒名を貰っているなら死後戒名が無いのは当たり前の話である。更に「この「死後戒名」が定着したのは江戸時代の寺請制度以来といわれています」とも言っているが、日有上人の『化義抄』に「仏事追善の引導の時の廻向の事、私の心中有るべからず、経を読んて此の経の功用に依つて当亡者の戒名を以つて無始の罪障を滅して成仏得道疑ひなし、乃至法界平等利益」と書かれているように日興上人門下においてには江戸時代より以前から戒名は定着しているのである。さて書籍になかで渡辺雄範(当時)が、「戒名を商売道具としているのは宗門も同じです。いや、もっと程度が悪い。実際、供養の額によって居士号を付けたり、日号をつけたりして云々」と正宗誹謗をしているがこれは全くのウソである。2年前に母の葬儀を正宗で出したが、葬儀のお願いを御住職に申し出た時に、まだ御供養もしていない段階で既に母の戒名はつけて頂いていた。供養をする前に戒名が決まっているのにどうして供養の額で戒名を変えることができるのか。そもそも正宗では戒名料などというものは無いし、御住職から御供養の金額を言われることもない。そんなこと百も承知でこのように平気でウソをつくのがコスプレ坊主である。無知の上に嘘つき。こんな人間がまともな僧侶になれるはずはないからコスプレ坊主になるわけだ。ともあれ日蓮正宗における「戒名」とは手継の師匠である御住職が大聖人の名代として故人の成仏を保証するという意味があるのである。半端人足のコスプレ坊主や信不具足の池田創価の連中には理解できないだろう。創価儀で送られた故人が気の毒だ。それに創価学会から故人に贈られる「名誉○○長」とかいう称号は成仏と関係する意味があるのかね(大笑)。軍隊や警察じゃあるまいし、それこそ「形式だけ」の行為だろう。

創価学会の退会方法(静かに創価を去るために) - 創価ダメだしブログ
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