「職業に貴賎なし。」といいますが、実際には職業によって差別されることは現代も仏陀の時代も変わりません。ニダイは仏陀在世に卑しいとされていた職業していた者が教団に入った最も代表的な例である弟子です。ニダイは非常に貧乏で舎衛城の貧民街に住み、雇われて糞尿を場外に捨てに行く仕事をしてました。ある日ブッタがアーナンダと場内で托鉢をしているところにニダイが近づいてきました。ニダイは自分が不浄の糞尿が入った容れ物を背負っていることを恥じて、遠くから合掌しそそくさと脇道に避けました。仏陀はニダイの心中を察し先回りしてニダイの前に立ちますが、ニダイは自分は汚れているから清浄な仏陀に近づいてはいけないと逃げまわります。やがてニダイは運悪く糞尿の入った瓶を壁にぶつけて糞汁を全身に浴びてしまい、仏陀に道を開けてくれるように泣きながら懇願します。そんなニダイに仏陀は、「お前は出家したいと思わないか?」と語りかけます。ニダイは「私のような汚れた者が出家などできるわけありません。」と答えます。仏陀は「私の法には、賎しいとか尊いという差別はない。お前が出家したければ出家するがよい。」と言い、過去の例を色々と話して聞かせると、ニダイの心は軽くなり、「私の様な者でもお許しいただけるならお願いいたします」と出家を決意します。こうして仏陀は城外の大河でニダイの身体を清めて連れて帰りました。ナザレのイエス(キリスト)がユダヤ教の法学者から異端と烙印されたのも、イエスが当時罪人と言われれた病人や貧民などの社会の最下層の人々を救済したからです。弱者を救っていく、全ての人々を差別から解放することは、仏教もキリスト教も変わりありません。日蓮大聖人もまた、自らが流罪・死罪という迫害に逢いながら民衆救済の為にその生涯を捧げました。仏様は衆生を差別しません。ところが衆生の側がニダイのように様々な理由を勝手に思っては仏様を避けようとするのです。しかしニダイのように仏様を敬う謙虚で純粋で素直な心があれば、今がどんなに苦しく辛く惨めで悲しい状況であっても仏様は決して見捨てず手を差し伸べてくれます。日寛上人は、「かならず、かならず身のまづしきをなげくべからず。唯信心のまづしき事をなげくべきにて候」(松任治兵衛殿御返事)と御指南されています。私達、末法の衆生は、「謗法罪障」という糞尿を毎日背負っているニダイのような者です。創価学会員のように糞尿を全身に浴びている者もいます。元創価の私も以前は全身糞まみれでした。それでも、戒壇大御本尊を信じる心はずっと失せることなく過ごしてきたから、戒壇大御本尊様が手を差し伸べてくれたのだと感じています。日寛上人の御指南を深く拝して、いかなる時でも「貧しい信心」だけはするまいと思っています。
創価学会の退会方法(静かに創価を去るために) - 創価ダメだしブログ
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